2008年08月01日
・同居記録:1
♪:佐世保メモリー
♪:母が泣いた日
♪:命の重さ
♪:心の色 2008.9
♪:蜃気楼 2008.8
♪:母の童歌 2008.5
同居記録:1
☆私の人生を変えた姉からの一本の電話。
「尚宏、もう今の私の状況では母を世話するのが無理。母には母の望む通りに佐世保の実家に帰って貰って独り住まいをさせるつもり。どんな形であれ母には自分の拘る家で自分の好きなように生きて最期を迎えて貰うのも母の人生かも知れない・・」。姉は決して本心ではないのでしょうが、そのような言葉を並べては自分の気持ちを繕っていました。今を遡ること5年半前の2003年の3月中旬の事でした。
私の母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年2月、長崎県北松浦郡佐々の生まれです。母は幼い頃から心臓が弱くて尋常小学校時代の体育の時間などではいつも独りだけ校庭の草毟り役だったとか。先生からは、「河内さん、日光を一杯に浴びて健康になるのですよ」、といつも励まされていたと母は言います。
母が心臓発作で倒れる姿は私達兄弟の幼い頃にはよく見かけたものでした。佐賀県伊万里市東山代町に家族が暮らした頃の私の記憶でも44~46歳の頃の母が台所の土間で頻繁に倒れ、気付けになるからと銀色の森下仁丹を噛んでいた姿が残っている程です。やがて、石油へのエネルギー転換が進み、例に漏れず佐賀県で経営していた東山代炭鉱が閉山し、父は長崎県の佐世保市で銀行勤めをしますが、年老いてからの再就職です。その苦労する父を必死に支える暮らしの中で長女の紘子が嫁ぎ、そして長男の利彦も家庭を持ち、三男の私も熊本に居を構えてと子供達が次々と家を離れていきます。そして、明治35年生まれの夫(利三郎が)没したのが75歳。母が64歳の時でした。
☆夫没後の約23年間もの独居。
夫の没後、母は文字通りの独居暮しをするのですが、話し相手も少なく、食事にも気を配る事もなくなり、張合いのない生活が母の身体を少しづつ衰弱させていったのだろうと思います。65歳頃からの母は左脇の下付近に痛みを覚えるようになりますが、今思えば心臓が危険信号を発し始めていたのでした。
思えば母の母親である河内ライ(旧姓・濱野ライ)も循環系である腎臓病の為に48歳の若さでこの世を去っていますから、私の母も体質的に循環系の弱さを受継いでいたのです。
この母の状態を気遣う長男夫婦が同じ佐世保市内に住んでいて、母との同居を何度も試みるのですが気丈夫な母は具合が良くなったからと暫くすると独居生活に拘って自宅に戻ります。しかし、今度は戻った自宅の庭先で転倒しては肋骨を骨折し再び長男の世話になり、こうして心臓発作に加えて足の指を曲げたり折ったりを日常的に繰返すようになっていきます。こうした日常の繰返しの中、私達は母には既に左股関節の経年疲労による骨折がある事を知ります。また、既に母は75歳を越えたばかりの頃には高血圧による眼底出血を止める手術で左目の視力を失っており、更に80代半ばには当時、大牟田営業所に勤務する兄夫婦の所へ滞在しながら白内障の手術も受けました。この為に遠近感や左右のバランス感覚も不自由になっていて、このような様々な身体機能の不具合が重なっては戻った自宅で転倒を繰返していて相当に辛い日常だったはずなのです。
しかし、気丈夫な母の言動に兄夫婦も次第に精神的に滅入るようになってきたのでしょうか、「我が思い母に通じず」、と思い始めたのでしょうか、そうした兄の困窮に長崎に嫁いでいる姉も母のお世話をしようとしますが、母が兄や姉の元で過ごすのは長くて3ヶ月が限度。多くは3日から2週間程度の滞在に過ぎなかったようです。
☆多くのお年寄りは老いてくると不安感から電話魔になるという。配慮次第では長く居着いてくれたはず。
2003年3月末の母との同居開始以来、私達夫婦が一貫して心掛けている事があります。それは長崎の姉夫婦、佐世保に住む兄夫婦や甥や姪に母の幼友達などとの電話や手紙の交換です。長崎に住む長女の紘子とは毎日の電話での遣り取りがあります。実は、これが熊本の私の家に母は5年半も居る理由の一つではないかと思います。
母が姉や兄の所を転々としていた頃にはこれがなかったのです。介護する兄や姉の側の心の余裕のなさが母を実家へ戻していたような気がしないでもありません。何故なら、母は姉や兄の家から実家に戻る度に私や甥の所へ連日のように電話を掛けていたのでした。
「母ちゃん、今日も尚宏に電話してみようか。義ちゃんは元気かしらね」、と母に受話器を渡す余裕が姉や兄にはなかったのだろうと思います。
お年寄りにはそれなりの生活パターンがあります。同居によってこの生活パターンを崩されたお年寄りは、「ここから早く逃げ出したい、住み慣れた家に帰りたい」、と言い出すのではないかと思います。食事内容しかり、TV番組しかり・・、好きなように思いつくところに電話さえ掛けられない、というのは辛いものです。私が、「同居と介護は違う」、と言うのはこれが理由であり、「介護をする」、と決心した以上は介護する側は一つ二つと自分達の暮らしの中から棄てるものがなければお年寄りの座る場所は見つからないからです。
☆母の生活を殆ど知らない、その頃の私がやれた事。
この頃の私は母が実家で独居生活に戻る度、料理好きな母の為、その延長として健康を取戻して貰おうと醤油や味噌、蜂蜜に漬込んだニンニクや昆布に煮干し、椎茸、木耳など、様々な乾燥食品をミキサーで粉末にしてサプリメントと一緒に送っていた事を思い出します。乾物は健康にいい成分に溢れていますが固いのがネック。そこで私は粉末にして送れば料理好きな母の事だからアレンジして使って食べてくれるはずだと思ったのです。辛うじて粉末のお茶が流通しだした頃で、昆布や椎茸、木耳などを粉末にした商品なんて当時はありませんでした。
☆「元来が気丈夫で頑固な母」、認知症に対する理解が不足し、子供達がまともに反応していた。
母の近くに住む長男が最初に同居を考えるようになったのは母の心臓発作が切っ掛けでした。やがて、転倒を繰返しては骨折さえするようになっていくという母の変化がありました。この頃の姉や兄にはまだ人間の脳の軟化や認知症という言葉への関心はたいして深くはなかったと思われます。しかし、この当時の母の言動を今に思い起こせば母には既に認知が出ていたのだと思われるのです。
元来が1円でもお釣りが不足している事に気づいた時などには買物をしたスーパーまでわざわざ受取りにいくほどの性格がきちっとした人だったが為、母本来の性格から出る言動なのか認知があっての言動なのかの区別を周囲が理解できない状態になっていたのではないかと思われます。
例えば、ものが無くなる、置いていた財布の中からお金が少しだけ消えている。だから計算が合わない、もしかしたら留守中に盗人が家に入っている・・、と母はよく言っていました。こういう話は認知症のご老人と暮らす家庭では日常的に聞かれる言葉で認知症の初期症状と言われますが、これを単なるお年寄りの物忘れや勘違いだと周囲の家族が勘違いしてしまうケースが多いのです。兄夫婦も姉夫婦もその事を考える余裕がなかったのです。
☆戦後の物資不足の時代を生きてきた母の言葉ではないか。
敗戦という苦しい時代を経験された日本のお年寄り達には戦後の生活物資不足の頃の記憶が鮮烈に残っていて、辛抱して築きあげ蓄えたものに対する拘りが常に残っていて無駄や贅沢を非常に嫌います。だから、あるべき所にものがない、合うはずの数字が合わないとなると周囲の誰かが、「持って行った、使った」、と感じても仕方がないのです。
戦後に住んだ家の庭にあったいい香りを出す山椒の木が一晩の内に盗まれていたり。飼っていた犬を綱から放したばかりに近所の大人に食べられていた・・、実に、母はそんな時代に生きてきたのです。
このようにモノがなくなる、嫁を盗人扱いするなどは介護家庭でなくともよく聞かれる事ですが、例に漏れずに兄の所でもこの問題が起きていたようですし、母が若い頃から一番信頼していた姉の所でも大なり小なり似たような問題はあったはずでした。当然、この問題は母が私の所へ来た際にも起きましたし、でも、兄夫婦も姉夫婦もこれに耐える事が出来なかったようでした。このどこにでもある問題をクリアできない限り介護同居は無理だと思うのです。
☆要するに兄夫婦、姉夫婦が母との同居にギブアップ
日常的なこのような事もありながら長女や長男との同居。そして、自宅に戻っての独居を繰返す期間が3年くらい続いた2003年3月。当時、母を再び、三度と長崎に迎えて同居していた長女の紘子から熊本に住む次男の私の元へと前述のような内容の電話が掛かってきたのでした。
換言すれば、母のそのような厳しい言動に対し、兄は、「責められる嫁が可哀想過ぎる」、と思い。姉にしても出産の為に一時帰郷してくる娘の為にもよくない、自身にも一過性とは言えど脳動脈瘤の術後の痛みがあって、母とは一緒に暮らせなくなったという事でした。もう、長男も受容れないだろうと・、いう判断です。
☆2008年6月現在でさえ、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と言う母・・。
確かに、母自身は、「あれが無くなった、これはこうじゃなかった」、以外にも、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と気丈夫な言葉を繰返して言っていたのだと思います。
これは95歳になり、認知が進んで要介護度4になった2008年6月現在の母であっても不機嫌な日には必ず発する言葉なんです。車椅子生活であってさえ、「今日はデイには歩いて行った」、と言うくらいですから、母は現状をよく理解できていないんです。
2003年3月の段階での母は心臓の不安定に加えて高血圧、左股関節には何本もの亀裂が入り、長崎では人工骨を勧められる程の身体になっていた母だったのですが、当の本人は自分の身体が思うように動かない。持病の心臓の調子が更に悪くなっているようで麻酔の適量が分からないから人工関節の手術さえ受けられない。だから、周囲の子供達が心配して同居を勧めているんだ、という事に対しての認識が殆どない・・。姉から私への電話はそのような事を次々に語っていました。この時の母の状態こそ、まさしく認知症の典型的な症状だったのだろうとつくづく思います。
☆老いた母に言葉で自分を受容れさせるのは無理。
姉や兄達は、「気丈夫な母」、という印象を強く持ち過ぎ、その事が自分達の認識を遅らせていたのだと思います。実は、「母よ、いつまでも母のままであって欲しい・・」、と強烈に願っていたのは兄であり、姉自身だったのだろうと思います。
自分が母を受容れるのではなく、「母に自分を受容れて欲しい」、と思う事自体が間違っていたのかも知れません。
母と長崎で3ヶ月を同居し、心臓疾患、股関節骨折、左目失明・・こうした母の最新の身体の状態を一番理解している姉が何故?と私は思いました。ショートステイで様子をみるとか、病名なんていつでも幾つでも付けられる母の身体ですから短期入院をさせる事だって可能だった時期のはずでした。その母を実家に戻して独居させるなど、私には考えられない事でした。
「私まで頭が痛くなった。長男が言っていた意味がよく分かる。兎も角、母を実家に置いて帰るから心配なら引取りに来なさい」、と、そんな感じにだって受取れました。何故なら、「もう、嫁が可哀想で堪らん」、という兄の同居断念の言葉を数ヶ月前に聞いていた姉です。その後のこうした事態ですから、「ああ、兄に続いて姉もついにギブアップか・・」、という印象を持つのは不自然ではありませんでした。
☆あの日、嫁の目を盗むようにして帰郷した私。
この2003年3月、私が佐世保の実家に母を迎えに行かなかったとしたら、多分、母は間違いなくあのままで逝っていただろうと思います。恐らく、姉も兄もそこまで覚悟していたのだと思います。
私は母との同居が6年目を迎えたからこそ言えますが、あの2003年3月26日、私はある種の憤慨と絶望を感じながら誰にも相談できず、何の準備もできず、半ば嫁の目を盗むようにして母を迎えに佐世保へ向かったのでした。家族って何だ、兄弟って何だ、覚悟って何だ・・、と。私の兄弟は[認知症]が分かっていなかったのです。それまでの約3年の間、姉と兄は母との同居に関し、「熊本の尚宏には無理だ」、と決め付け蚊帳の外に置いていながら、兄と姉の手に負えなくなった途端、心身共に最悪の状態の母を佐世保の実家に放り込んだようにしか思えてなりませんでした。
老いていくだけの母に対し、それまでの私自身を含めて俺達兄弟は一体何をしているのか分かっていない。尊厳も何もない所業だと思いました。確かに、母との共存よりも自分と自分の家族の生活を優先する事は世界中の母親が最終的に選択する事ではありますが、それは一般論としての話であって、老いて認知も進んだ母親に対してこそ与えるべきものがまだまだあったのではないかと思っています。実は、在宅での介護って介護する側が一つ二つと何かを棄てる覚悟がないと出来ないんです。
兎も角、こうした経緯があって行き場知らずになってしまった母を私が迎えに行ったのは事実でした。自分の命を削りながら私を育ててくれた母です。そんな母の姿を哀れみ刹那的に涙を流す、手を合わせて先祖に祈る・・、冗談じゃない、そんな事でだけでは片付かないものがあるんだと思いました。
母は今もこれからも生きていくんだ。目の前の薄れいく命を哀れみ涙を流す、芋虫のように転がる母に手さえ差伸べず仏壇に手を合わせるだけで何になるんだと思いました。
2008年08月02日
・同居記録:2
☆認知の初期は不安感や怒り、沈黙。母の認知は60歳代半ばから始まっていた気がする。
厳しい話になりますが、若い頃の姉は証券会社に勤めていて、世間の例に漏れずに友人や実家への勧誘をしていたようで、既に独居中の母は戦後の混乱期から買い求めていた電力株を姉に委ねた事がありました。
母は心のどこかに不安や怒りがあったのでしょう、その後の約2年間に渡って、「株券がない、どこに置いたんだろう」、「・・そう言えば、紘子が来て株券の話をしていた。紘子が持って帰ったのだろうか。そんな事をする子じゃない・・」、と熊本の私に毎晩のように電話をした時期があります。
私が説明すれば、「・・そうだったのかい。紘子もいろいろと考えてくれているんだね」、と納得するのですが、翌日になると、「株券が・・」、と騒ぎ出すのです。無理もありません。戦後の混乱器に電力株を買い求めた者には特別な高配当をなされた時期があって、その後も特別株主として一般売出し価格よりも安く買えるという優遇された株券だったからです。
この母の、「らしくない行動」は他にもあります。私と二人で行った父の墓参の帰りに肉を買って帰ろうと立寄ったスーパーでの出来事です。母は弱った視力(後に白内障で手術)の為か、末っ子可愛いさの為か価格を気にせずに牛も豚肉もチキンも構わずにパックを次々と買物かごに入れるのです。私はどうも様子が変な事に気づきました。母は既に買った同じ肉のパックを次々と入れているのです。
「こんなに肉を買ってどうするんだ?」、と私が聞けば、「・・こんなには肉は要らんよ、お前が入れたのかい」、と聞くのです。悲しいかな、この頃の私は上の二人の姉兄と同様、「母らしくないな、慌て者の母らしいな」、程度にしか理解していませんでした。今思えばこそですが、既に日常生活のいろんな場面で母には局所的に認知が始まっていたのだろうと思います。判断力がなくなっているのです。これは母が68歳の頃でしたが、この後にも訪問販売の勧誘に負けて簡単に購入してしまうなど、次々と自分を見失うケースが多発し始めたようです。
☆「まだ一人で暮らせる。自分の思うように好きに暮らしたい」、この言葉こそが認知の母の姿だったんだ。
2003年3月の長崎の姉からの電話の件に話が戻りますが、当時の姉の身体には自身が数年前に受けた脳動脈瘤の手術による術後の様々な一過性の症状が出始めていて、更には嫁いでいる長女がお産の為に姉の元に帰省する予定も加わり、姉には自分自身の体調不全の中での母の介護と出産帰郷する娘の世話の両立は到底できるものではないという状況が迫っていました。
この姉からの電話を聴いていた私は、「親を看るって、そういう事ではないだろう」、と思いました。今まで同居した期間の分だけ依存心が芽生え、母からは自活能力が落ちているはずだからです。どう考えてもそうなんです。
姉は決して私に対して母親の世話を引継ぐように頼んでいる訳ではありませんでした。母を母の思う通りの独居をさせる為に佐世保の自宅に連れて行くと伝えてきただけの事でしたが、母の思う事は認知の症状、母がしたい事も認知の結果です。全てが認知が進んでいく過程の母の姿だったはずですが、もう、それを姉に言っても理解しないと感じました。もう、姉は姉なりに悲痛な思いで結論を出していたんです。
ただ、私は受話器の向こうの姉の背後には私達の父の姿があるような気がしたのです。「紘子、もうお前には無理。寂しくなるが熊本に連れて行け。尚宏となら必ずうまくやれる・・」、と父が姉に受話器を握らせているような気がしていたのです。
こうして、この時の姉からの突然の1本の電話はその後の私の人生を大きく転換させる事になるのです。
☆兄弟に与えていた私の印象。そして、・・私の決意。
「尚宏には母親の世話はさせられない」、という姉や兄夫婦のそれまでの配慮があったのでしょう。腸重積による手遅れと言われた中で行なわれた9歳の時の私の腹膜炎大手術。小腸の40%、大腸の25%、その他の臓器も部分切除したりと、大変なものだったようです。そして、その術後不全による20代半ばまで繰返した幾度もの手術。生きる目的を失ったように自分自身の命さえも傷つけた事もあった私の10代後半から20代。そして、30代のイタリアンレストラン経営失敗での2千5百万近い多額の負債。そんな私の暮らしの一部分を知る姉や兄にとって、私に母親の介護をさせるという事など考えられない事だったのでしょう。しかし、私は姉からの電話の後に本能的に動き始めました。「野球・辞めよう、人生・狂い始めた・・、俺の命・・もう、いいか」。
☆2003年3月26日、佐世保へ帰郷。「俺は・・大事な忘れ物をしていた」。
姉からの電話を受けた私は3月26日に佐世保へ向かいました。本当に・・、まるで嫁の目を盗むようにして我家を出たんです。
母は姉に連れられて自宅に戻って3~4日経っていた頃でしょうか。母の状態を聞いていた私は玄関の呼び鈴を押すのを控え、まずは茶の間のある裏庭の方へ向かいました。そして、ガラス窓の隙間から覗き込む私の目にはそれは悲惨で変わり果てた母の姿が映ったのでした。それは、まるで芋虫のように茶の間に転がる母の姿でした。私の脳裏には元気な頃の母の仕草や笑い声がコマ送りの動画のようにフラッシュバックし、私は車に戻り泣きました。そして、悔いました。大切な忘れ物をしていた事を悔いました。多くの人間の末路ってこんなものなのかって思いました。「命が転がっている。母の命が消え始めた・・」。威厳も何もない。まるで、芋虫・そんな弱った母の悲しい姿でした。
☆畳の上に命が転がっている・・。「ヒロ子はどこ、ヒロ子っ・・」、長崎と佐世保の区別がつかない母。
陽気な笑顔を見せようと思った私は車の中で笑い顔を作る練習をした後、「ただいま帰りました」、と玄関のドアを開けて母の横たわる茶の間に向かいました。
「あら?、誰?・・尚宏かね?」。
約4年振りに帰った私の事を母が分かってくれた事に安心しましたが、突然の私の帰郷に驚いた母が身体を起こそうとしますがそれができません。「ホホッ、何でだろうね・・ホホ」。
母は脱水状態になっていたので私はバッグに入っていた飲みかけのペットボトルのお茶を軽く飲ませました。
「どれ、美味しいお茶でも煎れ直そうか・あれ、・紘子はどこ?・、さっきまで一緒にいたような気がするけど」。
「ヒロコ、尚宏が帰ったよ。ヒロコ、ヒロコっ」。母は暫くの間は紘子の名を呼び続けていました。
母は長崎から紘子に連れられて佐世保の自宅に戻った事を理解してなく、佐世保の実家と長崎の紘子の家の区別ができていない処か、紘子はこの家で自分と一緒に暮らしているんだと理解しているのです。
「買物にしちゃ遅いね・、ホホッ、私には何がどうなっているのかさっぱり分からない」、と母が言います。
「母ちゃんは独り暮らしがしたくて長崎の姉ちゃんの所からこの佐世保に戻っとるのさ」、と私が言えば、「・で、紘子はここにはおらんのね・・。ああ、何が何だか私には分からない。歳をとるって嫌な事だよ」、と言います。
炬燵のテーブルの上には兄嫁が届けてくれたらしい一日分の母の食料が入った鍋やお茶セット。炬燵横にはお湯ポットなどがありましたが母が手をつけた気配は全くありません。空腹感さえ感じていないようでした。
今思えば、丁度、この日から1ヶ月前の2月26日に90歳を迎えたばかりの変わり果てた母の姿でした。
☆この状態で・・、独居をさせると判断したのか?。
母は失禁をしているらしく、茶の間には多少の汚物の匂いもありましたが、もう、母自身は皮膚感覚も嗅覚も鈍くなっていて、そうした事すら気がついていないようでした。私としても帰宅早々、「あれは汚い、これは何故ここにあるんだ」、などと掃除を始めたり、モノを移動させたり、質問などをしては母の心が乱れると思って拘らずにいた処、「尚宏、おしっこに連れて行っておくれ」、と母が頼んできます。
姉の元を離れて数日だと言うのに母は自力では起き上がれないようになっていたのです。私は要領が悪いながらも母を立たせて杖を持たせますが、立上がって歩こうとすると、「股関節と両膝が痛い」、と言っては崩れ落ちるように私に倒れ込むのでした。右半身を下にして転がっているだけですから右手が殆ど上がらず、持った杖に力が入らないのです。母をトイレのソバまで引きずるように運び、渾身の力を入れて母を抱え上げて便座に座らせる事ができたのですが、「これじゃ・・、独居なんてとんでもない話だ。母を独居させるとこんな状態になる事くらいは分かるはず。こんな姿が母自身が望んでいた姿だと姉や兄は本気で思っているのだろうか」、と思いました。兄と姉が交互にお世話していた分、依存心だけが増殖して母の自活能力がほぼ完全になくなってしまっていたのです。
☆私を含め、[認知症]というものを兄も姉も深くは理解していなかった。
この時から約4年前に私が帰省した時の母は86歳。まだこんな感じではありませんでした。その時の母は白い割烹着姿で台所に立ち、私を歓待してくれました。鳥の唐揚げをしたり、私の大好きな押し寿司を作ってくれたり・・・。本当に一日中、何かをして動き回っていました。しかし、後に近所の方から聞いた話では、既にこの頃の母は買物を詰めたカートを押して帰る坂道で転倒しては通りかかる誰かが抱き起こしてくれない限り路上に転んだままだったとか・・。当時の母が使っていた買物カートを見ると赤黒くなった血糊が付着しているのはその頃の怪我で出血した痕跡なのだろうと思います。
今思えば、私を含めて姉も兄も認知症という言葉や意味をどれほど理解し、やがて訪れる介護問題として考える事があったかは多いに疑問です。気丈夫だった母親だけに、「しっかりしなさい、どうしたの、母ちゃんらしくない」、という思いだけが強くあったのだと思います。
☆独居5年目、母が危篤状態になった事。
母は父没後6ヶ月頃、当時1軒目の家を建てた私の家を祝いに訪れています。私が27歳の時です。この時の母は私の家から400mもあるスーパーに行ったり、「昔風の魚屋さんのある場所を教えておくれ」、と場所を聞き、翌日には4Km近くもあろうかというその魚屋さんに買物に行っては私達夫婦の為に夕飯を作ってくれました。
「2週間くらいは居させて貰うよ」、と言っていたのですが、この時に左腕が痺れたり、左脇の下が痛み出したという事で5日ほどで佐世保に戻っています。そして、この後も母は約4年間に渡って不定期に左腕や脇の下付近に鋭い痛みを感じるようになっていました。そして、独居5年目を終える69歳の時に強い心臓発作で倒れ、搬送先の病院ではICU治療室に寝かされ、ペースメーカーを埋める手術はできずに心臓の状態を電波で飛ばして24時間監視をされるという状態になったのでした。
厳しい話になりますが、若い頃の姉は証券会社に勤めていて、世間の例に漏れずに友人や実家への勧誘をしていたようで、既に独居中の母は戦後の混乱期から買い求めていた電力株を姉に委ねた事がありました。
母は心のどこかに不安や怒りがあったのでしょう、その後の約2年間に渡って、「株券がない、どこに置いたんだろう」、「・・そう言えば、紘子が来て株券の話をしていた。紘子が持って帰ったのだろうか。そんな事をする子じゃない・・」、と熊本の私に毎晩のように電話をした時期があります。
私が説明すれば、「・・そうだったのかい。紘子もいろいろと考えてくれているんだね」、と納得するのですが、翌日になると、「株券が・・」、と騒ぎ出すのです。無理もありません。戦後の混乱器に電力株を買い求めた者には特別な高配当をなされた時期があって、その後も特別株主として一般売出し価格よりも安く買えるという優遇された株券だったからです。
この母の、「らしくない行動」は他にもあります。私と二人で行った父の墓参の帰りに肉を買って帰ろうと立寄ったスーパーでの出来事です。母は弱った視力(後に白内障で手術)の為か、末っ子可愛いさの為か価格を気にせずに牛も豚肉もチキンも構わずにパックを次々と買物かごに入れるのです。私はどうも様子が変な事に気づきました。母は既に買った同じ肉のパックを次々と入れているのです。
「こんなに肉を買ってどうするんだ?」、と私が聞けば、「・・こんなには肉は要らんよ、お前が入れたのかい」、と聞くのです。悲しいかな、この頃の私は上の二人の姉兄と同様、「母らしくないな、慌て者の母らしいな」、程度にしか理解していませんでした。今思えばこそですが、既に日常生活のいろんな場面で母には局所的に認知が始まっていたのだろうと思います。判断力がなくなっているのです。これは母が68歳の頃でしたが、この後にも訪問販売の勧誘に負けて簡単に購入してしまうなど、次々と自分を見失うケースが多発し始めたようです。
☆「まだ一人で暮らせる。自分の思うように好きに暮らしたい」、この言葉こそが認知の母の姿だったんだ。
2003年3月の長崎の姉からの電話の件に話が戻りますが、当時の姉の身体には自身が数年前に受けた脳動脈瘤の手術による術後の様々な一過性の症状が出始めていて、更には嫁いでいる長女がお産の為に姉の元に帰省する予定も加わり、姉には自分自身の体調不全の中での母の介護と出産帰郷する娘の世話の両立は到底できるものではないという状況が迫っていました。
この姉からの電話を聴いていた私は、「親を看るって、そういう事ではないだろう」、と思いました。今まで同居した期間の分だけ依存心が芽生え、母からは自活能力が落ちているはずだからです。どう考えてもそうなんです。
姉は決して私に対して母親の世話を引継ぐように頼んでいる訳ではありませんでした。母を母の思う通りの独居をさせる為に佐世保の自宅に連れて行くと伝えてきただけの事でしたが、母の思う事は認知の症状、母がしたい事も認知の結果です。全てが認知が進んでいく過程の母の姿だったはずですが、もう、それを姉に言っても理解しないと感じました。もう、姉は姉なりに悲痛な思いで結論を出していたんです。
ただ、私は受話器の向こうの姉の背後には私達の父の姿があるような気がしたのです。「紘子、もうお前には無理。寂しくなるが熊本に連れて行け。尚宏となら必ずうまくやれる・・」、と父が姉に受話器を握らせているような気がしていたのです。
こうして、この時の姉からの突然の1本の電話はその後の私の人生を大きく転換させる事になるのです。
☆兄弟に与えていた私の印象。そして、・・私の決意。
「尚宏には母親の世話はさせられない」、という姉や兄夫婦のそれまでの配慮があったのでしょう。腸重積による手遅れと言われた中で行なわれた9歳の時の私の腹膜炎大手術。小腸の40%、大腸の25%、その他の臓器も部分切除したりと、大変なものだったようです。そして、その術後不全による20代半ばまで繰返した幾度もの手術。生きる目的を失ったように自分自身の命さえも傷つけた事もあった私の10代後半から20代。そして、30代のイタリアンレストラン経営失敗での2千5百万近い多額の負債。そんな私の暮らしの一部分を知る姉や兄にとって、私に母親の介護をさせるという事など考えられない事だったのでしょう。しかし、私は姉からの電話の後に本能的に動き始めました。「野球・辞めよう、人生・狂い始めた・・、俺の命・・もう、いいか」。
☆2003年3月26日、佐世保へ帰郷。「俺は・・大事な忘れ物をしていた」。
姉からの電話を受けた私は3月26日に佐世保へ向かいました。本当に・・、まるで嫁の目を盗むようにして我家を出たんです。
母は姉に連れられて自宅に戻って3~4日経っていた頃でしょうか。母の状態を聞いていた私は玄関の呼び鈴を押すのを控え、まずは茶の間のある裏庭の方へ向かいました。そして、ガラス窓の隙間から覗き込む私の目にはそれは悲惨で変わり果てた母の姿が映ったのでした。それは、まるで芋虫のように茶の間に転がる母の姿でした。私の脳裏には元気な頃の母の仕草や笑い声がコマ送りの動画のようにフラッシュバックし、私は車に戻り泣きました。そして、悔いました。大切な忘れ物をしていた事を悔いました。多くの人間の末路ってこんなものなのかって思いました。「命が転がっている。母の命が消え始めた・・」。威厳も何もない。まるで、芋虫・そんな弱った母の悲しい姿でした。
☆畳の上に命が転がっている・・。「ヒロ子はどこ、ヒロ子っ・・」、長崎と佐世保の区別がつかない母。
陽気な笑顔を見せようと思った私は車の中で笑い顔を作る練習をした後、「ただいま帰りました」、と玄関のドアを開けて母の横たわる茶の間に向かいました。
「あら?、誰?・・尚宏かね?」。
約4年振りに帰った私の事を母が分かってくれた事に安心しましたが、突然の私の帰郷に驚いた母が身体を起こそうとしますがそれができません。「ホホッ、何でだろうね・・ホホ」。
母は脱水状態になっていたので私はバッグに入っていた飲みかけのペットボトルのお茶を軽く飲ませました。
「どれ、美味しいお茶でも煎れ直そうか・あれ、・紘子はどこ?・、さっきまで一緒にいたような気がするけど」。
「ヒロコ、尚宏が帰ったよ。ヒロコ、ヒロコっ」。母は暫くの間は紘子の名を呼び続けていました。
母は長崎から紘子に連れられて佐世保の自宅に戻った事を理解してなく、佐世保の実家と長崎の紘子の家の区別ができていない処か、紘子はこの家で自分と一緒に暮らしているんだと理解しているのです。
「買物にしちゃ遅いね・、ホホッ、私には何がどうなっているのかさっぱり分からない」、と母が言います。
「母ちゃんは独り暮らしがしたくて長崎の姉ちゃんの所からこの佐世保に戻っとるのさ」、と私が言えば、「・で、紘子はここにはおらんのね・・。ああ、何が何だか私には分からない。歳をとるって嫌な事だよ」、と言います。
炬燵のテーブルの上には兄嫁が届けてくれたらしい一日分の母の食料が入った鍋やお茶セット。炬燵横にはお湯ポットなどがありましたが母が手をつけた気配は全くありません。空腹感さえ感じていないようでした。
今思えば、丁度、この日から1ヶ月前の2月26日に90歳を迎えたばかりの変わり果てた母の姿でした。
☆この状態で・・、独居をさせると判断したのか?。
母は失禁をしているらしく、茶の間には多少の汚物の匂いもありましたが、もう、母自身は皮膚感覚も嗅覚も鈍くなっていて、そうした事すら気がついていないようでした。私としても帰宅早々、「あれは汚い、これは何故ここにあるんだ」、などと掃除を始めたり、モノを移動させたり、質問などをしては母の心が乱れると思って拘らずにいた処、「尚宏、おしっこに連れて行っておくれ」、と母が頼んできます。
姉の元を離れて数日だと言うのに母は自力では起き上がれないようになっていたのです。私は要領が悪いながらも母を立たせて杖を持たせますが、立上がって歩こうとすると、「股関節と両膝が痛い」、と言っては崩れ落ちるように私に倒れ込むのでした。右半身を下にして転がっているだけですから右手が殆ど上がらず、持った杖に力が入らないのです。母をトイレのソバまで引きずるように運び、渾身の力を入れて母を抱え上げて便座に座らせる事ができたのですが、「これじゃ・・、独居なんてとんでもない話だ。母を独居させるとこんな状態になる事くらいは分かるはず。こんな姿が母自身が望んでいた姿だと姉や兄は本気で思っているのだろうか」、と思いました。兄と姉が交互にお世話していた分、依存心だけが増殖して母の自活能力がほぼ完全になくなってしまっていたのです。
☆私を含め、[認知症]というものを兄も姉も深くは理解していなかった。
この時から約4年前に私が帰省した時の母は86歳。まだこんな感じではありませんでした。その時の母は白い割烹着姿で台所に立ち、私を歓待してくれました。鳥の唐揚げをしたり、私の大好きな押し寿司を作ってくれたり・・・。本当に一日中、何かをして動き回っていました。しかし、後に近所の方から聞いた話では、既にこの頃の母は買物を詰めたカートを押して帰る坂道で転倒しては通りかかる誰かが抱き起こしてくれない限り路上に転んだままだったとか・・。当時の母が使っていた買物カートを見ると赤黒くなった血糊が付着しているのはその頃の怪我で出血した痕跡なのだろうと思います。
今思えば、私を含めて姉も兄も認知症という言葉や意味をどれほど理解し、やがて訪れる介護問題として考える事があったかは多いに疑問です。気丈夫だった母親だけに、「しっかりしなさい、どうしたの、母ちゃんらしくない」、という思いだけが強くあったのだと思います。
☆独居5年目、母が危篤状態になった事。
母は父没後6ヶ月頃、当時1軒目の家を建てた私の家を祝いに訪れています。私が27歳の時です。この時の母は私の家から400mもあるスーパーに行ったり、「昔風の魚屋さんのある場所を教えておくれ」、と場所を聞き、翌日には4Km近くもあろうかというその魚屋さんに買物に行っては私達夫婦の為に夕飯を作ってくれました。
「2週間くらいは居させて貰うよ」、と言っていたのですが、この時に左腕が痺れたり、左脇の下が痛み出したという事で5日ほどで佐世保に戻っています。そして、この後も母は約4年間に渡って不定期に左腕や脇の下付近に鋭い痛みを感じるようになっていました。そして、独居5年目を終える69歳の時に強い心臓発作で倒れ、搬送先の病院ではICU治療室に寝かされ、ペースメーカーを埋める手術はできずに心臓の状態を電波で飛ばして24時間監視をされるという状態になったのでした。
2008年08月03日
・同居記録:3
☆母が私にはより心を開くことを知っていた。
ここで、どうしても書いておかなければいけない事があります。それは、私に対する母の特別な思いの事です。
母は危機状態を乗越えたという医師の判断で一般病棟に移そうとした途端、再び発作を起こすという厄介な日が続きました。
勿論、子供達は最悪のケースを想定して病院に駆けつけていました。この時、母はベッドの傍らに姉や兄が居るというのに、私を枕元に呼んでは、「尚宏、・・おしっこ」、と小さな声で言うのです。姉や兄嫁などは、「一体、この隔たりは何なのだろう」、と思った事と思います。
幼い頃からの私の知る限り、母はずっとそうでした。母は姉や兄の前では母親であろうとする気持ちが強いのですが、私の前ではか弱き女性になる事が多かったのです。よく、母は父や姉、兄に背を向けては白いエプロンの裾で涙を拭き、時には私を抱きしめ泣く事がありました。
姉は現在でさえ、母の泣いている姿は見た事がないと言いますから不幸な事です。しかし、この母の姿は私しか知らない事です。
思えば長女は父に似て学問が大好きで、家での姉は勉強机に向かう事多く、私の記憶の中の姉を一言で言えば夜中遅くにゴリゴリと2Bの鉛筆を削る音で目を覚まされた事。食事よりも勉強机に向かうのが好きな人でした。私と姉は7歳違いで私と兄は3歳違いなのですが、私は姉と遊んだ記憶がありません。
兄は陸上競技や野球に没頭。体格のいい兄は常に2~3歳年長組とスポーツをしていて、いきおい、母と私が二人だけで過ごす時間が多かったのです。
買物にしても私は心臓の弱い母について回り、やがては買物自体を幼い私が母の書いたメモを頼りに引受けるという、そんな日常が当り前のようになっていました。遊び心からではあったのですが、私は畑に胡瓜や茄子を作っては母に買い上げて貰ったり、カマドで米を炊く母の腰が痛くないようにと1回座っただけで壊れてしまうような木製椅子を作ってみたりと・・、幼い頃の私と母は一心同体のように仲が良かった事を覚えています。
いつも私は母が喜ぶ事を考え、母もそんな私を可愛がってくれました。しかし、母が私を特別に可愛いがったのはそうした事だけが理由ではなかったのです。
☆母は4人目の子供に注ぐはずの愛情まで私に注いでくれていた。私の不思議な体験。
実は、母には姉や兄、私には伝えていない積年の苦しい胸の思いがあったのです。私はその事を臨終宣告を受ける程の9歳の時の大手術中に知ったのでした。それは不思議な体験でしたが、私はその事を父が没すまで母にも兄弟に対しても口に出す事はありませんでした。母は私に愛情を注ぐ事で心の傷を癒そうとしていたのです。
前述したように、私は9歳の時の腹膜炎手術の最中に私の左横で血圧を測っていた看護婦さんの、「先生、血圧が30に下がってしまいました」、という言葉と、「手術中止します・・・臨終」、という医師の声を聞いたのです。
9歳の子供が臨終という言葉の意味が分かるはずはありません。しかし、「自分が違う世界に逝く」、という感覚はあるんです。やがて、私はその不思議な世界に導かれた先で祖父に会い、祖父に右手を引かれた私の弟と出会ったのでした。神仏に対する知識も関心もない僅か9歳の子供が見た紫色の世界。それは、本当に不思議な世界でした。実は、私は9歳時にこの世界で感じた事を【母に生命を返す時】として伝え残そうとしているのかも知れません。
☆[母に生命を返す時]の意味、真意。母親の魂の篭もった祈りは神仏よりも強い。
「母親の魂の篭もった叫び声は神仏よりも強い」、と私は思います。
「尚宏、尚宏・・、頑張っておくれ」、「尚宏、死なんでおくれ!」。オペ室のドアの向こうで悲しみに泣き叫ぶ母の声はあの紫色の世界にまで響き渡ってきました。
私はかの地で祖父、弟と話をする事ができました。「もう、いいじゃないか。もう、痛み苦しみはお休みにしなさい」、と祖父が私に手を差出していました。弟を見ると、「ボクの苦しさが分かるかい」、と訴えていました。しかし、弟に続いて二人目の子供を失いたくない母の必死の叫び声は間違いなくかの地に響き渡ってきました。一瞬ですが、「ボクは母チャンを放っておけない」、と思ったのです。そして、かの地を離れた私は母の叫ぶ声を頼りに再びの現世に戻ったのだろうと思います。
母は4人目の子供を堕胎しなくてはいけなかった事に対し、ずっと深い悲しみを背負って生きていたのです。だから、母は私の次に生まれるはずだった子供への愛情までをも盲目的に私に注いでいたのです。
母が69歳時、あの心臓発作で倒れた時の病院で見せた母の態度。「尚宏・・おしっこ」、という言葉。今思えば、あの時の母は私と私の背後にいる弟を呼び寄せていたような気がしています。「もうすぐ、私はお前達の住む所へ行くのよ・・」、と。
私は、確かに現世には生きていますが私の魂はあの9歳時の臨死体験の際から祖父と弟の隣に置いてきているような気がしています。それとも、あの時に魂だけが弟と入れ替わり、ここに居る私は弟なのかも知れないと思う事がよくあります。
あの若い頃、自分の存在を探して山に篭もったように、「母に生命を返す時」を書くことで自分が与えられた2つ目の命が誰のものかを今も探しているのかも知れません。
☆母が語った4人目の子供の事。「俺は知っていたよ」、「私の中に住んでいる弟」。
父の葬儀も終わって初七日を迎えた時、母は姉兄と私の3人の子供を仏壇の前に集め、水子供養をする旨の説明をしようとしましたが、「俺は随分と前から知っていたよ」、と母に伝え、母が驚いた表情をしたのを記憶しています。
このように、あの幼い日の大手術からの生還以来、私には自分の意思とは別にもう一つの不思議な力が加わる瞬間がよくあります。
具体的に言えば、「あの人はこのままだとこうなる。この人にはこんな変化が数年後に迫っている」、というような、目の前の事の成り行きや人の生涯などが大雑杷に見えてしまうのです。こんな時、「あっ、この判断は俺の意思じゃない。この言葉は俺の中の弟が喋っている・・」、と思うのです。実は、私の人生はこんな事の繰返しなんです。
時に、私が自分らしくない詩を書いたり、自分の詩に涙したりします。恐らく、こんな時は私の中に住んでいる弟が詩を書いているんだろうな、と納得するのです。
私の意識の中に末っ子であるという意識がないのはそうした事が理由だと思います。この思いは姉や兄が私の事を本当に理解する上では必要な要素だと思っています。
☆私の作った肉じゃがをお代りした母
長崎からの姉の電話の後、私が佐世保の実家に帰った際の話に戻ります。母をトイレに運んで便座に座らせた私は母に対して、「あっちこっち痛い、辛いと感じるのは生きている証拠!。生きていてこそ感じられる痛みさ」、と言えば、「・・そうね」、と母は答えます。
「もう、駄目だと思えば次から次に落ちるように駄目になっていくものさ」、と言えば、「・・そうね」、と力の無い返事が返ります。
「頑張って生きようと思えよ」、と言えば、「そうは思わん。もう・、いいよ」、と言います。「そんな風だと簡単にはお迎えになんか来て貰えんよ。・・ほら、俺の為に歩いてくれ」、と言うと、母は意を決したように、「よしッ」、と言いながら顔を顰めながらも便座から立上がろうとするのです。
支えてさえやれば歩けるのですが、骨折箇所の股関節や両膝の痛みに負けて歩く事に恐怖を感じていたのです。しかし、痛みであれ、恐怖が原因であれ、倒れるのは事実ですから、今で言う[全介助]状態の母でした。
私はトイレから茶の間に戻った母のお尻をお湯タオルで拭き、新しい下着やズボンに履き替えさせながら心に誓うモノがありました。「絶対にお袋をもう一度歩けるようにしてみせる」。そう思っていました。ただ、その気持ちをどうやって伝えるかを考えていました。
この日、夕食にと私が作った肉じゃがを母はお代りして食べてくれました。炬燵の上に右腕を乗せ、手首だけを起用に動かしてスプーンで食べていました。私の母、実は胸焼けがするという理由でジャガイモが苦手なんです。
☆3月27日、思いついた鍼7本で奇跡。
翌日の事です。佐世保に住む兄嫁の美佐緒さんが10:00頃に顔を出して昼ご飯時に冷麺を作ってくれたのを覚えています。熊本への帰りの時間も近づき、その支度をしようとバッグを開けた私はいつも持ち歩いている鍼ケースを見つけたのです。「・・そうだ、お袋の上がらない右手に打ってみよう・・」、という気になったのです。本当に偶然でした。
私自身の抱える腰椎分離骨折の痛みや痺れをとる為に自分の身体に打つ分なら問題ないだろうと持ち歩いているのですが、どういう訳かこの機に母に打ってみたいという衝動が湧いたのです。この鍼が母が熊本に来る切っ掛けになったのです。
「母ちゃん、上を脱いでご覧。右腕だけでも上がるようにしてあげるよ」、と言い乍らストーブを近づけ、私は母の右肩の前後、肘と背中に合計で7ヶ所に鍼を打ち込みました。更に、多少の痛みがありますが、鍼を差し込んだままで右腕を掴んで前後左右上下に揺するのです。
鍼を打ったままで腕を動かす事はかなり痛いのですが母は私を信じ切っていました。こうした状態を15分くらい保った上で鍼を抜くのですが、何と言うことでしょう。母は上がらないはずの右腕を真上に上げてグルグルと回し始めたのです。
☆ついに、母が自分から始めて使った言葉。「尚宏、熊本について行っていいね」。
「ナオヒロ・・楽になったよ。とてもいいよ!」、とそれは喜色満面で喜びを表現してくれたのでした。まるで、7本の鍼が起こした奇跡でした。打った私が信じられないのですからね。そして、「尚宏、熊本に・・ついて行って・・いいネ」、と母が言ったのです。それはとてもゆっくりと噛みしめるような口調でした。
「ああ、母は弱っている。だけど、まだまだ母は頑張ろうという気持ちを持っているじゃないか」、と思いましたね。母の遠慮がちな表情、腹の底から絞り出すような声を今でもはっきりと憶えています。「母ちゃん、・・その言葉を待っとったよ」。
母の生涯の中で、何かを周囲に懇願したのは二度目の事でした。因みに、母の最初の懇願とは、詳しくは書けませんが、長男に対して言った、「お願いだから大学を続けておくれ」、という言葉でした。
☆熊本に向かう車中
熊本への車中、母は楽しそうでした。「♪どこから私しゃ来たのやら、いつまたどこへ帰るやら。♪咲いては萎む花じゃやら、群れて遊ぶ小鳥やら」。十数年振りに聞く母の歌声でした。この歌の題名は母自身も知りませんが、辛い時、楽しい事があった時に母はよく唄います。幼い頃の尋常小学校の学芸会ではソロで唄った事もあったと言います。
母の両親が経営していた歌が浦の平田山炭坑には中国や朝鮮からの労働者が大勢居て、恐らく彼らが故郷を偲んで唄っていたのではないかと私は解釈しています。
佐世保インターから西九州道に乗り、三河内インターを越えた頃からの車窓から見える山々の桜の花が綺麗でした。「ほら、あそこの黄色っぽいのは山桜さ」、「うん、あれはあれで綺麗ね」、などど言っているうちに、「処で尚宏・・、私はどこに行くんだろうね?」、と母が尋ねます。
「どこでもいいさ、あんたの思うまま、行きたいまま、気の向くままさ」、と言えば、「そうね、お好きなようにどこにでも、どうにでもしてくれよね」、などと言い、「♪どこから私しゃ来たのやら・・」、と再び歌い始めます。そして、やがて、「処で尚宏、この車はどこに行くとね?」、と尋ねるのです。私も負けずに、「どこでもいいさ、あんたの思うまま、気の向くままさ」、と何度も何度も答えていましたが、自分の母親が私のそばに存在する満足感とその母の余りの変わり様に驚いている私がいたのです。
☆嫁の予告通り、玄関から居間に辿り着けない。既に嫁は嫁で連日の実母の介助通い。
実は、佐世保から熊本へ戻る際、佐世保から母を連れて来るようになった経緯を嫁に電話した際、嫁は猛反対したのです。
「絶対に無理、連れて帰らないで」、と言いました。経済面で言えば姉兄の所で同居するのが一番。しかし、それが無理なら施設へ入所させるしかないというのが嫁の考えでした。
それも選択肢の一つですが、現実に母は姉の所に滞在していて戻ったばかり、兄にしてもこれ以上の同居はできないという事で姉の家へ母を送ったのが3ヶ月前・・。こうしたパターンの同居を約3年に渡って繰返したのですから、もう母は長女や長男との同居は無理。母は彼らの家庭や健康さえも壊しかねない存在になっていたのです。
私は、「俺達だって同居を試みない事には自分の意見を持てないじゃないか」、と嫁を説得しての帰熊になりましたが、嫁は嫁で入院中の寝たきりの実母の介助の日々があったのですから反対も無理はありませんでした。
嫁の話では母の熊本滞在は1週間だけの期限つきの試みだったそうですが、私は覚えておりまっせん(長崎弁)。
熊本の私の家に着いたのはいいのですが、母を車から居間の椅子に移動させるまでが大変な作業になりました。車の助手席から玄関までの母は私の腰に手を回し、私は母の左側から背中に回した右手を母の右脇に後から差込んで、半ば持上げるようにして歩かせました。やはり、相当に股関節が痛むようでした。
次に玄関から居間へ上がる足がどうしても上がりません。長い期間の摺り足の癖があって足を上げようとしても上がりません。母は、「ホホ・・何でだろうね」、「歩き辛いよ・ホホ」、膝の痛みを我慢するように四つん這いになって居間を進むしかありませんでした。
私は老いた母の姿を見ながら怒りや悲しみ・、いろんな感情を含んだものを感じました。「兄や姉が母に対して抱いた感情もこんなものだったのかな・・」、そう思いました。
この時、私の前をもの凄い早さで時間が流れ始めたのを感じました。
「俺は負けない、兄や姉と同じ失敗は絶対にしない・・」。
まさしく、私が自分自身を相手に戦いを始めた瞬間でもあったのです。
☆2003年3月末、同居開始。
母は幼い頃から心臓が弱く、また長年の神経痛に加えて変形性膝関節痛があり、更に腰骨と左股関節にも経年骨折がありました。夫没後の独居生活5年目を終えようとした69歳時の母を最初の命の危機が襲います。食事を作る張合いもなく話し相手も少ない独居生活の中で心臓が自然衰弱したのでしょうか、ICUで24時間監視を受ける状態にまでなりました。
「最後は畳の上で」、と言う医師の言葉で自宅に戻リましたが、この時は奇跡的な回復をみせて事なきを得ましたが、幼くして母親を腎臓病で亡くしている母は体質的に循環系が弱いような気がします。70歳代前半には若い頃からの痔を悪化させますが、子供達にも知らせずに実姉の子である甥の向(むこう)浩美氏に相談、病院を探して貰っては自分で手術を受けに行くほどの気丈夫な面も持つ母でした。
更に、70代後半には高血圧による眼底出血の為にレザー手術を受けましたが、その代償として左目の視力を失いました。また、84歳の頃には白内障を患ってはその手術もしています。これが私の知る限りでの熊本に来た当時の母の既往症です。
その母が私達夫婦と同居を始めたのは2003年3月末。90歳になって間もない母は杖をついて歩く事もままならぬ状態でした。熊本の私の家に着いて玄関に上がる際などには嫁が床に敷いた毛布の上を四つん這いになって居間まで進む有り様でした。
具体的に言えば、母の左脇に左手を入れて右手で衣服の腰の部分を掴み上げるようして介助すれば立て、母の左手を柱などに触れさせている間に右手に杖を持たせるのです。座る時はその逆。自立歩行は左手で掴み支える事ができるような柱や壁のような固定物が次々と母の歩く方向の左手に現われない限りできませんでした。
また、仮に杖をついて歩き始める事ができたとしても両膝、特に左膝の痛みがひどい時には崩れ落ちるように倒れます。結局、常に誰かが添い歩きをする必要があるという、そんな状態でした。全介助の状態なんです。「これじゃ、兄や姉の家では大変な同居だったろう・・」、そう感じました。
☆2003年4月。母が転倒。完全に寝たきりの状態に・・。
来熊直後、その母が私達夫婦と暮らし始めて最初の転倒をします。仕事を休み、春の選抜高校野球大会のTV中継を見ながら居眠りを始めた私を居間続きの和室から目撃した母は私に毛布を掛けてやろうと思ったみたいでした。
ベッドから降りた母は片手で部屋の柱を掴みながら右手で自分の毛布を引き剥がしては居間に転がる私の方へフラフラと踏み出そうとし、和室から居間への段差につまづいて転倒したのでした。それはそうでしょう。杖を持たないといけない右手に毛布を持ってしまったのですから倒れて当たり前です。もう、もの凄い音でした。
五体の健常な者が倒れる音ではありません。まるで、立て掛けた材木が一気に倒れたような音でした。この転倒事故は母親としての本能が引き起した事故でした。
母はこの転倒で骨折こそなかったものの右足太股の動脈を損傷し、左足が不自由な母は大切な右足の自由を奪われて完全に寝たきりの状態になってしまいます。私達夫婦にとっては最初の試練が訪れたのでした。2003年4月の事です。
ここで、どうしても書いておかなければいけない事があります。それは、私に対する母の特別な思いの事です。
母は危機状態を乗越えたという医師の判断で一般病棟に移そうとした途端、再び発作を起こすという厄介な日が続きました。
勿論、子供達は最悪のケースを想定して病院に駆けつけていました。この時、母はベッドの傍らに姉や兄が居るというのに、私を枕元に呼んでは、「尚宏、・・おしっこ」、と小さな声で言うのです。姉や兄嫁などは、「一体、この隔たりは何なのだろう」、と思った事と思います。
幼い頃からの私の知る限り、母はずっとそうでした。母は姉や兄の前では母親であろうとする気持ちが強いのですが、私の前ではか弱き女性になる事が多かったのです。よく、母は父や姉、兄に背を向けては白いエプロンの裾で涙を拭き、時には私を抱きしめ泣く事がありました。
姉は現在でさえ、母の泣いている姿は見た事がないと言いますから不幸な事です。しかし、この母の姿は私しか知らない事です。
思えば長女は父に似て学問が大好きで、家での姉は勉強机に向かう事多く、私の記憶の中の姉を一言で言えば夜中遅くにゴリゴリと2Bの鉛筆を削る音で目を覚まされた事。食事よりも勉強机に向かうのが好きな人でした。私と姉は7歳違いで私と兄は3歳違いなのですが、私は姉と遊んだ記憶がありません。
兄は陸上競技や野球に没頭。体格のいい兄は常に2~3歳年長組とスポーツをしていて、いきおい、母と私が二人だけで過ごす時間が多かったのです。
買物にしても私は心臓の弱い母について回り、やがては買物自体を幼い私が母の書いたメモを頼りに引受けるという、そんな日常が当り前のようになっていました。遊び心からではあったのですが、私は畑に胡瓜や茄子を作っては母に買い上げて貰ったり、カマドで米を炊く母の腰が痛くないようにと1回座っただけで壊れてしまうような木製椅子を作ってみたりと・・、幼い頃の私と母は一心同体のように仲が良かった事を覚えています。
いつも私は母が喜ぶ事を考え、母もそんな私を可愛がってくれました。しかし、母が私を特別に可愛いがったのはそうした事だけが理由ではなかったのです。
☆母は4人目の子供に注ぐはずの愛情まで私に注いでくれていた。私の不思議な体験。
実は、母には姉や兄、私には伝えていない積年の苦しい胸の思いがあったのです。私はその事を臨終宣告を受ける程の9歳の時の大手術中に知ったのでした。それは不思議な体験でしたが、私はその事を父が没すまで母にも兄弟に対しても口に出す事はありませんでした。母は私に愛情を注ぐ事で心の傷を癒そうとしていたのです。
前述したように、私は9歳の時の腹膜炎手術の最中に私の左横で血圧を測っていた看護婦さんの、「先生、血圧が30に下がってしまいました」、という言葉と、「手術中止します・・・臨終」、という医師の声を聞いたのです。
9歳の子供が臨終という言葉の意味が分かるはずはありません。しかし、「自分が違う世界に逝く」、という感覚はあるんです。やがて、私はその不思議な世界に導かれた先で祖父に会い、祖父に右手を引かれた私の弟と出会ったのでした。神仏に対する知識も関心もない僅か9歳の子供が見た紫色の世界。それは、本当に不思議な世界でした。実は、私は9歳時にこの世界で感じた事を【母に生命を返す時】として伝え残そうとしているのかも知れません。
☆[母に生命を返す時]の意味、真意。母親の魂の篭もった祈りは神仏よりも強い。
「母親の魂の篭もった叫び声は神仏よりも強い」、と私は思います。
「尚宏、尚宏・・、頑張っておくれ」、「尚宏、死なんでおくれ!」。オペ室のドアの向こうで悲しみに泣き叫ぶ母の声はあの紫色の世界にまで響き渡ってきました。
私はかの地で祖父、弟と話をする事ができました。「もう、いいじゃないか。もう、痛み苦しみはお休みにしなさい」、と祖父が私に手を差出していました。弟を見ると、「ボクの苦しさが分かるかい」、と訴えていました。しかし、弟に続いて二人目の子供を失いたくない母の必死の叫び声は間違いなくかの地に響き渡ってきました。一瞬ですが、「ボクは母チャンを放っておけない」、と思ったのです。そして、かの地を離れた私は母の叫ぶ声を頼りに再びの現世に戻ったのだろうと思います。
母は4人目の子供を堕胎しなくてはいけなかった事に対し、ずっと深い悲しみを背負って生きていたのです。だから、母は私の次に生まれるはずだった子供への愛情までをも盲目的に私に注いでいたのです。
母が69歳時、あの心臓発作で倒れた時の病院で見せた母の態度。「尚宏・・おしっこ」、という言葉。今思えば、あの時の母は私と私の背後にいる弟を呼び寄せていたような気がしています。「もうすぐ、私はお前達の住む所へ行くのよ・・」、と。
私は、確かに現世には生きていますが私の魂はあの9歳時の臨死体験の際から祖父と弟の隣に置いてきているような気がしています。それとも、あの時に魂だけが弟と入れ替わり、ここに居る私は弟なのかも知れないと思う事がよくあります。
あの若い頃、自分の存在を探して山に篭もったように、「母に生命を返す時」を書くことで自分が与えられた2つ目の命が誰のものかを今も探しているのかも知れません。
☆母が語った4人目の子供の事。「俺は知っていたよ」、「私の中に住んでいる弟」。
父の葬儀も終わって初七日を迎えた時、母は姉兄と私の3人の子供を仏壇の前に集め、水子供養をする旨の説明をしようとしましたが、「俺は随分と前から知っていたよ」、と母に伝え、母が驚いた表情をしたのを記憶しています。
このように、あの幼い日の大手術からの生還以来、私には自分の意思とは別にもう一つの不思議な力が加わる瞬間がよくあります。
具体的に言えば、「あの人はこのままだとこうなる。この人にはこんな変化が数年後に迫っている」、というような、目の前の事の成り行きや人の生涯などが大雑杷に見えてしまうのです。こんな時、「あっ、この判断は俺の意思じゃない。この言葉は俺の中の弟が喋っている・・」、と思うのです。実は、私の人生はこんな事の繰返しなんです。
時に、私が自分らしくない詩を書いたり、自分の詩に涙したりします。恐らく、こんな時は私の中に住んでいる弟が詩を書いているんだろうな、と納得するのです。
私の意識の中に末っ子であるという意識がないのはそうした事が理由だと思います。この思いは姉や兄が私の事を本当に理解する上では必要な要素だと思っています。
☆私の作った肉じゃがをお代りした母
長崎からの姉の電話の後、私が佐世保の実家に帰った際の話に戻ります。母をトイレに運んで便座に座らせた私は母に対して、「あっちこっち痛い、辛いと感じるのは生きている証拠!。生きていてこそ感じられる痛みさ」、と言えば、「・・そうね」、と母は答えます。
「もう、駄目だと思えば次から次に落ちるように駄目になっていくものさ」、と言えば、「・・そうね」、と力の無い返事が返ります。
「頑張って生きようと思えよ」、と言えば、「そうは思わん。もう・、いいよ」、と言います。「そんな風だと簡単にはお迎えになんか来て貰えんよ。・・ほら、俺の為に歩いてくれ」、と言うと、母は意を決したように、「よしッ」、と言いながら顔を顰めながらも便座から立上がろうとするのです。
支えてさえやれば歩けるのですが、骨折箇所の股関節や両膝の痛みに負けて歩く事に恐怖を感じていたのです。しかし、痛みであれ、恐怖が原因であれ、倒れるのは事実ですから、今で言う[全介助]状態の母でした。
私はトイレから茶の間に戻った母のお尻をお湯タオルで拭き、新しい下着やズボンに履き替えさせながら心に誓うモノがありました。「絶対にお袋をもう一度歩けるようにしてみせる」。そう思っていました。ただ、その気持ちをどうやって伝えるかを考えていました。
この日、夕食にと私が作った肉じゃがを母はお代りして食べてくれました。炬燵の上に右腕を乗せ、手首だけを起用に動かしてスプーンで食べていました。私の母、実は胸焼けがするという理由でジャガイモが苦手なんです。
☆3月27日、思いついた鍼7本で奇跡。
翌日の事です。佐世保に住む兄嫁の美佐緒さんが10:00頃に顔を出して昼ご飯時に冷麺を作ってくれたのを覚えています。熊本への帰りの時間も近づき、その支度をしようとバッグを開けた私はいつも持ち歩いている鍼ケースを見つけたのです。「・・そうだ、お袋の上がらない右手に打ってみよう・・」、という気になったのです。本当に偶然でした。
私自身の抱える腰椎分離骨折の痛みや痺れをとる為に自分の身体に打つ分なら問題ないだろうと持ち歩いているのですが、どういう訳かこの機に母に打ってみたいという衝動が湧いたのです。この鍼が母が熊本に来る切っ掛けになったのです。
「母ちゃん、上を脱いでご覧。右腕だけでも上がるようにしてあげるよ」、と言い乍らストーブを近づけ、私は母の右肩の前後、肘と背中に合計で7ヶ所に鍼を打ち込みました。更に、多少の痛みがありますが、鍼を差し込んだままで右腕を掴んで前後左右上下に揺するのです。
鍼を打ったままで腕を動かす事はかなり痛いのですが母は私を信じ切っていました。こうした状態を15分くらい保った上で鍼を抜くのですが、何と言うことでしょう。母は上がらないはずの右腕を真上に上げてグルグルと回し始めたのです。
☆ついに、母が自分から始めて使った言葉。「尚宏、熊本について行っていいね」。
「ナオヒロ・・楽になったよ。とてもいいよ!」、とそれは喜色満面で喜びを表現してくれたのでした。まるで、7本の鍼が起こした奇跡でした。打った私が信じられないのですからね。そして、「尚宏、熊本に・・ついて行って・・いいネ」、と母が言ったのです。それはとてもゆっくりと噛みしめるような口調でした。
「ああ、母は弱っている。だけど、まだまだ母は頑張ろうという気持ちを持っているじゃないか」、と思いましたね。母の遠慮がちな表情、腹の底から絞り出すような声を今でもはっきりと憶えています。「母ちゃん、・・その言葉を待っとったよ」。
母の生涯の中で、何かを周囲に懇願したのは二度目の事でした。因みに、母の最初の懇願とは、詳しくは書けませんが、長男に対して言った、「お願いだから大学を続けておくれ」、という言葉でした。
☆熊本に向かう車中
熊本への車中、母は楽しそうでした。「♪どこから私しゃ来たのやら、いつまたどこへ帰るやら。♪咲いては萎む花じゃやら、群れて遊ぶ小鳥やら」。十数年振りに聞く母の歌声でした。この歌の題名は母自身も知りませんが、辛い時、楽しい事があった時に母はよく唄います。幼い頃の尋常小学校の学芸会ではソロで唄った事もあったと言います。
母の両親が経営していた歌が浦の平田山炭坑には中国や朝鮮からの労働者が大勢居て、恐らく彼らが故郷を偲んで唄っていたのではないかと私は解釈しています。
佐世保インターから西九州道に乗り、三河内インターを越えた頃からの車窓から見える山々の桜の花が綺麗でした。「ほら、あそこの黄色っぽいのは山桜さ」、「うん、あれはあれで綺麗ね」、などど言っているうちに、「処で尚宏・・、私はどこに行くんだろうね?」、と母が尋ねます。
「どこでもいいさ、あんたの思うまま、行きたいまま、気の向くままさ」、と言えば、「そうね、お好きなようにどこにでも、どうにでもしてくれよね」、などと言い、「♪どこから私しゃ来たのやら・・」、と再び歌い始めます。そして、やがて、「処で尚宏、この車はどこに行くとね?」、と尋ねるのです。私も負けずに、「どこでもいいさ、あんたの思うまま、気の向くままさ」、と何度も何度も答えていましたが、自分の母親が私のそばに存在する満足感とその母の余りの変わり様に驚いている私がいたのです。
☆嫁の予告通り、玄関から居間に辿り着けない。既に嫁は嫁で連日の実母の介助通い。
実は、佐世保から熊本へ戻る際、佐世保から母を連れて来るようになった経緯を嫁に電話した際、嫁は猛反対したのです。
「絶対に無理、連れて帰らないで」、と言いました。経済面で言えば姉兄の所で同居するのが一番。しかし、それが無理なら施設へ入所させるしかないというのが嫁の考えでした。
それも選択肢の一つですが、現実に母は姉の所に滞在していて戻ったばかり、兄にしてもこれ以上の同居はできないという事で姉の家へ母を送ったのが3ヶ月前・・。こうしたパターンの同居を約3年に渡って繰返したのですから、もう母は長女や長男との同居は無理。母は彼らの家庭や健康さえも壊しかねない存在になっていたのです。
私は、「俺達だって同居を試みない事には自分の意見を持てないじゃないか」、と嫁を説得しての帰熊になりましたが、嫁は嫁で入院中の寝たきりの実母の介助の日々があったのですから反対も無理はありませんでした。
嫁の話では母の熊本滞在は1週間だけの期限つきの試みだったそうですが、私は覚えておりまっせん(長崎弁)。
熊本の私の家に着いたのはいいのですが、母を車から居間の椅子に移動させるまでが大変な作業になりました。車の助手席から玄関までの母は私の腰に手を回し、私は母の左側から背中に回した右手を母の右脇に後から差込んで、半ば持上げるようにして歩かせました。やはり、相当に股関節が痛むようでした。
次に玄関から居間へ上がる足がどうしても上がりません。長い期間の摺り足の癖があって足を上げようとしても上がりません。母は、「ホホ・・何でだろうね」、「歩き辛いよ・ホホ」、膝の痛みを我慢するように四つん這いになって居間を進むしかありませんでした。
私は老いた母の姿を見ながら怒りや悲しみ・、いろんな感情を含んだものを感じました。「兄や姉が母に対して抱いた感情もこんなものだったのかな・・」、そう思いました。
この時、私の前をもの凄い早さで時間が流れ始めたのを感じました。
「俺は負けない、兄や姉と同じ失敗は絶対にしない・・」。
まさしく、私が自分自身を相手に戦いを始めた瞬間でもあったのです。
☆2003年3月末、同居開始。
母は幼い頃から心臓が弱く、また長年の神経痛に加えて変形性膝関節痛があり、更に腰骨と左股関節にも経年骨折がありました。夫没後の独居生活5年目を終えようとした69歳時の母を最初の命の危機が襲います。食事を作る張合いもなく話し相手も少ない独居生活の中で心臓が自然衰弱したのでしょうか、ICUで24時間監視を受ける状態にまでなりました。
「最後は畳の上で」、と言う医師の言葉で自宅に戻リましたが、この時は奇跡的な回復をみせて事なきを得ましたが、幼くして母親を腎臓病で亡くしている母は体質的に循環系が弱いような気がします。70歳代前半には若い頃からの痔を悪化させますが、子供達にも知らせずに実姉の子である甥の向(むこう)浩美氏に相談、病院を探して貰っては自分で手術を受けに行くほどの気丈夫な面も持つ母でした。
更に、70代後半には高血圧による眼底出血の為にレザー手術を受けましたが、その代償として左目の視力を失いました。また、84歳の頃には白内障を患ってはその手術もしています。これが私の知る限りでの熊本に来た当時の母の既往症です。
その母が私達夫婦と同居を始めたのは2003年3月末。90歳になって間もない母は杖をついて歩く事もままならぬ状態でした。熊本の私の家に着いて玄関に上がる際などには嫁が床に敷いた毛布の上を四つん這いになって居間まで進む有り様でした。
具体的に言えば、母の左脇に左手を入れて右手で衣服の腰の部分を掴み上げるようして介助すれば立て、母の左手を柱などに触れさせている間に右手に杖を持たせるのです。座る時はその逆。自立歩行は左手で掴み支える事ができるような柱や壁のような固定物が次々と母の歩く方向の左手に現われない限りできませんでした。
また、仮に杖をついて歩き始める事ができたとしても両膝、特に左膝の痛みがひどい時には崩れ落ちるように倒れます。結局、常に誰かが添い歩きをする必要があるという、そんな状態でした。全介助の状態なんです。「これじゃ、兄や姉の家では大変な同居だったろう・・」、そう感じました。
☆2003年4月。母が転倒。完全に寝たきりの状態に・・。
来熊直後、その母が私達夫婦と暮らし始めて最初の転倒をします。仕事を休み、春の選抜高校野球大会のTV中継を見ながら居眠りを始めた私を居間続きの和室から目撃した母は私に毛布を掛けてやろうと思ったみたいでした。
ベッドから降りた母は片手で部屋の柱を掴みながら右手で自分の毛布を引き剥がしては居間に転がる私の方へフラフラと踏み出そうとし、和室から居間への段差につまづいて転倒したのでした。それはそうでしょう。杖を持たないといけない右手に毛布を持ってしまったのですから倒れて当たり前です。もう、もの凄い音でした。
五体の健常な者が倒れる音ではありません。まるで、立て掛けた材木が一気に倒れたような音でした。この転倒事故は母親としての本能が引き起した事故でした。
母はこの転倒で骨折こそなかったものの右足太股の動脈を損傷し、左足が不自由な母は大切な右足の自由を奪われて完全に寝たきりの状態になってしまいます。私達夫婦にとっては最初の試練が訪れたのでした。2003年4月の事です。
2008年08月04日
・同居記録:4
☆母の認知症状を実感。現実が全く分からない。嫁を激しく非難。
夜中にポータブルトイレを使おうとしてベッドから滑り落ち、立てない母はそのまま畳を汚しては朝まで転がっている事もありました。何故、私に助けを求めないのか・・、老いに対する怒り、老いに対する悲しさ、老いてまで気遣いを忘れない母。しかし、この頃の私には母の長い人生を思い遣る心も尊敬の気持ちも今ほどにはなかったのだと思います。
老いは誰にでもあること。老いを理解するには目の前の老いを認めることから始まります。認めるには尊敬の念が無ければいけません。
ただ現実を言えば、嫁が汚物のついた衣服を脱がせたり身体を洗おうとしたりすると母は激しく嫁を責めました。「何の為に着替えるの?、私の身体を洗うの?、私はそんなに汚いのかい!、と。母はもう昨夜の出来事をすっかり忘れているのです。こんな時、気丈夫な母だけに嫁に吐き掛ける言葉には相当に辛辣な表現もありました。この瞬間認識と瞬間記憶消失という二つの糸で織られた母の現実。この時、私は介護の大変さを痛感しました。一つ一つが始めて経験する事でした。「あの母親が・・、俺の母親が・・」、と思いました。第一、この頃の私は認知症という言葉自体を使った事がない人間だったのです。
☆一つ一つの介助に対し、その必要な理由を求める母。
仕事どころではありません。母は嫁から受ける世話を好まないものだから、一つ一つのお世話をする際に時間ばかりが掛かるのです。「はい、お義母さん。お顔を拭きますよ」、と温タオルを持った嫁が母の部屋に入れば、「私は自分で洗面所に行くのに・・」、と迷惑そうな表情をします。
「お義母さんは上手く歩けないでしょう?」、と言えば、「そんな事はないよ、私をバカにするのかい?」、と言います。「第一、私の部屋に声も掛けずに勝手に入って来ないでおくれ」、とも言います。
こんな調子で朝の起きがけの顔を拭くだけで15分は要するのです。一つの介助をするのに、何故そうする必要があるのかという事を逐一説明する事から始まるのです。すべての事に説明が必要でした。嫁だって完全ではありません。私は二人の間に割って入っては母を説得し直します。出勤直前にこうした事態が起きたりすると、「えーい、どけ俺がやる」、と携帯電話を握っては欠勤を告げ、交代要員に職場に急行して貰っていました。
☆「とんでもない事になった」。
一日の世話に疲れ果て、崩れ始めた私達の生活。私のこれからの人生を思うと、「とんでもない事になった」、と思った事が何度あった事か・・。覚悟はあったとしてもじわじわと堪えてくるのです。
歩けない母親を蔑んだ事もあります。「どうしたお袋!」、と母を責める心。「認知が言わせる言葉じゃないか。それが老いさ、俺もやがては母の気持ちも分かるさ」、と母を護る心。私の心の中ではいつも二つの人格が闘い、思案続きの日々に過呼吸症気味になっては息苦しくなる夜が何度もありました。
母もそんな私の表情を読み取るのでしょうか、「私は佐世保に帰るよ、大和町に帰りたい。それが駄目なら・いっそ殺しておくれ」、と叫びます。それは悲痛なくらいの表情で叫ぶのです。
母も悔しかったのだと思います。思うようにならない自分の身体と監視される辛さ。「こんなはずじゃない・」、という思い。「お願い、助けておくれ」、と言ってしまう自分。「いつの間に、私は・・」、と昔を振返ろうとしても思い出せない中抜けの記憶。
母はこの3~10年の自分の暮らしを断片的にしか振返れません。母が思い出す事の多くは50~80年前の事ばかりでした。しかし、母の思いは思いとして、現実には母には独居など到底無理。「ああ、姉や兄も母のこうした姿を見て途方に暮れていたんだ」、と実感させられたのでした。
☆鍼・灸・マッサージ。自分が変わって見せるしかない。
このままでは母も私達夫婦の暮らしも駄目になると、本当にそう思いました。思い悩んだ私は、「母には姉や兄と同居した時と同じ日常を与えていては駄目だ」、と考えました。今の母には長女夫婦や長男夫婦と過ごした時間とは違う、私ならではの何かを与える必要があると考えました。それが母を変えるかも知れないと思ったのです。
「そうだ、母に指圧やマッサージを試みてみよう」、と思いました。周囲が嫌がる仕事や根を上げそうな仕事をコツコツと根気よく続ける事は割と私の性分にあっているのです。マッサージくらいは誰にでもできますが・・。
私は嫁に言いました。「この現実から逃げちゃいかん。これは俺が神から科せられた修行なんだ。母に変化を望むなら自分が変わって見せるしかない」、と薄暗い部屋の中で天井を見上げて呟いていたのです。私はこの頃から妙に涙もろくなっていきました。
私は必死でした。歩行ができない母に対する朝夕のマッサージにお灸、そして、素人は行なってはいけない鍼さえも専門家の元へ習いに通いました。
鍼自体は母が来熊する以前から自分の身体に打ってはいましたが、母に打つとなると話は別です。母が訴える痛みを私自身が痛いかのような素振りで幾つかの鍼灸院に通ったのです。しかし、実際に母への鍼を施術しようとする段になると習った通りの部位へ打つというのは怖いものがありました。
結局、この頃の母への鍼は無難で安全な部位にしか打たないという、そんな程度のものになっていたようです。
☆私自身が抱えている腰椎分離骨折滑り症。
実は、母の来熊の約3年前、私は自分の野球チームの練習中に転倒して背中の一部の骨が縦に割れるという、正確には腰椎分離骨折すべり症という状態になり、背骨を支えている左右の腰椎が割れてボルトを入れて支える手術を勧められた時期がありました。
しかし、約2年を費やしてボルト固定と取り外しの2回の手術をしても完全な元の身体に戻る保証はなく、私は野球を続ける中で腹筋を鍛えて背骨を安定させる方法を選びました。現在でも背骨が臍の方向にズレたままで、天候や季節によって左右の足に痺れがあり、その度に私は自分で、「痛てっ、この野郎」、とか言いながら自分自身に施術しています。だから、私は鍼治療で痛みや痺れが消える事を自分の身体で知ってはいたのです。
☆私の迷い。草野球チームの解散を決意。
母の来熊直後の転倒、そしてその後に始めた必死のリハビリ。こうしたリハビリは母にも私にとっても大変な忍耐と努力を伴いました。
連日、母に施した全身へのマッサージに鍼やお灸。そして、寝たきり生活で関節が固くなってもいけません。私は横になった母の両足を私の胸や腹に当て、「足突っ張りさ、自転車を漕ぐようにして俺の胸や腹を蹴ってみてくれ」、と言っては母に蹴らせました。この運動が私の腹筋も鍛えてくれるのです。また、母の手の指の間に私の指を入れては「力の入れっこ」をしたり・・。
そして、私はそれまで十数年と続けた大好きな草野球チームも解散する事を決意します。因みに、私の草チームのジャガーズは1999年度は熊本全県下で20位を争う成績を残す程の自慢のチーム。当時の新聞の地方版には監督兼選手として私の活躍を報じる記事が残ってもいます。
私は職場に行く日を減らしては週の大半を母と過ごす事になりましたが、凄い決断と代償が必要でした。
☆私の仕事、嫁の事情。
私は音響や照明機器の操作をする小さな会社を経営していて、ある公共ホールの仕事をさせて頂いています。だから、ある程度は自分で勤務時間の調整ができる生活環境だった事が母の介護には幸いしました。勿論、人出不足を補う為、新たなパート従業員を雇う為の出費が重なるものですから我が家の家計には大変な影響がありました。一方、嫁は既に1級ヘルパーとして利用者宅に出向く訪問介護という就業の方法を選択していました。
母の来熊後の転倒で私達の日常が変ってしまいました。私と嫁のどちらかが必ず在宅していなければなりません。嫁はヘルパーを続けますが、私は基本的に仕事には出ない。出たとしても週に2回程度。私が出社する日には嫁は仕事に出ない。私が出社したとしても9:00~14:00勤務か15:00~19:00勤務程度。兎も角、私か嫁の何れかが必ず母を看る必要がありました。こんな状態ですから、私も嫁の収入も激減したのは当然です。また、嫁には介護福祉士の受験資格を満たす為の勤務時間の累積ができないというジレンマが相当にあったのではないかと思います。また、既述したように、嫁は嫁で既にこの時期の6年前以上も前から入院中の実母の月曜から金曜日の夕方の食事介助や院内での洗濯という大変な日課があったのです。
☆嫁が絡む・・が、手を抜いた介護で母の身体レベルが下がれば我々の暮らしも辛くなるんだ。
訪問介護の仕事に実母の介助と、嫁は相当に疲れがあって苛つく日もあったのでしょうか、「私ならそこまではしない。貴方は極度のマザコンじゃない?」、と私に絡む日が多くなります。
確かに、どうかすると私は週に1日も出社しない日さえありました。仕事には殆ど行かず、たまに出掛けた仕事でも昼過ぎに切り上げて帰宅し、真夜中まで母の世話に明け暮れるのですからね。そんな私を見ていてそんな皮肉を言いたくなるのも分かりました。介護を専門とする嫁の目にはそう見えたのでしょう。
この頃の私は、「いつまでも俺の母親でいてくれ」、という思いだけでお世話をしていたようです。また、嫁に対しても、「俺の母親だからお前だって面倒見るのは当然だろう」、という意識もあったようでした。
結局、この頃の私は介護の素人。「どうにかしたい。現状以下にはなって欲しくない。俺が留守の時間は母を寝かせるなり、あやすなり、母が動き回らぬように監視していてくれ」、と嫁に強制しているだけに過ぎなかったのです。ただ、命は一つしかありませんからね。何が正しくて何がいけないかは誰にも分からない事です。
言える事は、「少しでも快方に向かえば私達夫婦の介護も暮らしも楽になり、介護の手を抜いてしまえば母のレベルが下がる分だけその後の介護も我々の暮らしも辛くなる・・」、のは事実なんです。
☆祈りのない鍼やマッサージは効かない。
私が行なう母へのリハビリですが、母の身体は一向に応えてくれません。連日のマッサージで私の両手の指は曲がり始め、肘や肩、首筋にも痛みが走るまでになっていました。「もう・・母が歩く姿を見るのは無理・」、そう思った時期もありました。「俺は自分の身体をこんなに痛めてまで頑張っているのに母の身体は応えてくれない・・」、と思いました。
動かさない身体は益々固くなります。老人を自室に閉じ込め気味な暮しをさせる事は安全なのですが、一方では身体の衰弱を招きます。その身体に幾らマッサージを施しても意味がないのです。そんな理屈さえ私には分かっていない頃でした。介護と同居は違うんです。
☆忘れていた若き頃の山籠もり修業時代の自分。
そんなある日、2階の私の部屋の隅に人目を忍ぶように置かれたままの古びた白いビニールバッグが私の目に入ったのです。高校、大学時代と持ち続けた[私の走り書き帳]が入ったバッグでした。本当に偶然の事でしたが、フッと思い出す事があったのです。その走り書き帳の膨大な数の詩の中の一つに次のような詩があったのです。
「辛いと思う時、悲しさを憶える時、憎しみを感じる時、そして、空腹を覚える時・・、私はそんな時にはいつも母の優しさを思う。思うだけで母の白い割烹着を通して母の匂いを感じるのだ。・・・母が笑っている。その母の背にはどこまでも続く青い空が見える。海がみえる。風が吹いてきた。やがて夕焼けが始まる。そして父が帰る。ニコニコと笑っている。いつの間にか私は辛さを忘れている。いつの間にか私の悲しみが微笑みに変わっている。いつの間にか憎しみが愛おしさに変わっている。そして、いつの間にか私の空腹も満たされている。そう、・・私は今、故郷を離れて旅をしているのだ。・・もう、私はこのまま朽ちても構わない。それは幸せが何かを知ったから、そして、それを貰うだけで与える事ができない自分を知ったから。神よ、せめて私をあの青い空に運んでくれ。何故なら、あの空の上から母を見守り続けたいから・・・」。
これは私が食料も持たずにジュラルミン製のナイフ1本で山に出掛け、半ば死に憧れるかのように山篭もりを繰返していた20歳の頃に書いた詩の一節でした。
父は明治35年生まれ。私は父が48歳の時の子供。私が20歳の時には父は既に68歳。私には年老いた両親を思う故にスポーツに音楽に文学に自ら潰してしまった夢が数多くありました。
大学2年の時、音楽では中央からの誘いもあって退学を考えました。「学園闘争が終わった今、君の斬新なスタイルの詩はこれからの日本の若者には不可欠なものになるだろう」、という評価を受けて悩んだのです。
当時はフォークソングブームの最中。流行する曲の多くは、「愛だ、恋だ」、と青春を謳歌する作品ばかり。そんな中での私は、「異色の学生フォークシンガー」、に見えたのかも知れません。しかし、普段から音楽家の事を「河原芸人、河原乞食」、と表現して堅実な思考をする父親の「まずは大学卒業だ。止めとけ」、という一言で断念したのです。
そして、もう一編の、「優しさなら自分の命を差し出すほどの優しさを示せ、怒りなら相手の命を奪うほどに示せ。神はその何れにも力を貸してくれる・・、喉が乾いたなら己の血を飲め、腹が減ったか己の身を喰め・・、いつもお前はそうして生き抜いてきた・・。今は生きるのだ。・・・」 、という私の激しい性格を物語る表現の詩にも惹きつけられました。これも山籠もりの最中に書いた詩でした。私は自分が書いた30数年前のこの2編の対照的な詩を読みながら感じるモノがありました。
それは、[優しさの裏にある覚悟]、というものでした。
☆信念、覚悟を示すものは同じ行為の継続。
優しさや厳しさって・、時には継続する事を求められます。継続しない瞬間的な優しさや厳しさ、涙や言葉は人間としての軽さ以外の何でもない、とさえ私は思っています。信念や真心を示す指標は同じ行為の継続なんです。
介護同居って継続が求められます。覚悟がないとできません。
居を同じくするって事は、生を同じくする事。生を同じくするって事は命を分け合う事だと私は覚悟しています。命は先祖からの、或いは神からの預かりもの。預かりものである以上、必要であれば私は嫁にだって命を分けてやるべきだと思います。
☆祈り、それは念
父や母や嫁に与える、或いは貰う感謝の気持ちって一緒にいる時にはなかなか感じる事ができず、遠くに離れてみて感じる事が多いものです。それは離れて暮らすお互いが[祈りという念]、を送り合っているからこそです。
「ふる里は遠くにありて思うもの・・」、って言いますが、離れてみて知る故郷に住む父や母、友人のありがたさ、とでもいう意味でしょうか。しかし、来熊後の母と私との間には馴れ合いや我が儘さが出始めていたんです。
私は、私と母のお互いが「互いを思い遣る祈りの念」、というものが薄くなってきている事に気付いたのです。同居を開始して以来、「あそこが痛い、ここもまだ痛い」。
「・・うーん、あれ程揉んだのに・・明日でいいだろう」、の繰返しであって、そこには母の強くなる一方の依存心とその日限りの私の達成感だけしかない事に気づいたのでした。また、母の介護の為に私の勤務時間を減らした結果、生活レベルが落ちていく事での将来への不安。そんなモノへの拘りや焦りが多いにあったのだろうと思います。
この20歳の時に書かれた自分の詩を読んだ私は大切な事を思い出したのです。私の目の前にいる母は私の記憶の中にある母じゃない・・。
私は母の現実を直視できずにいる自分に気づいたのでした。
「老いた母親と分かった上での同居なんだ」、とどうしても思う事ができない結果、単に自分への誓いを満たす為だけの心のないマッサージや鍼をしていたのではないか、と気づいたのです。恐らく、この頃にデイ施設の利用を思いついていたとしても受容れる施設は見つからず、整形外科への入院になっていたと思います。母の身体の運動機能はその程度に落ちていたのでした。
☆2003年6月の頃。母の身体に好転の兆しが・・。
それからの私はためらっていた鍼を中心にしたリハビリに集中するようになりました。鍼は医療行為ですから素人は禁止されています。しかし、自分自身に対して打つ事は誰にも止める事は出来ません。「もう、打つしかない」、私は母への本格的な鍼を決断したのです。鍼を本格的に母親の身体に打つのは怖いものがありました。しかし、姉の、「私は尚宏を信じる。母の身体は何もしないならいつまで待っても何も変わらない・、尚宏が誠意を込めて打てば変わるかもしれない」、という言葉で決心したのでした。
朝夕に限らず、深夜にも打つ場所を変えて打ちました。後頭部、側頭部、首筋から背中、腰にかけては背骨に沿って両足と全身に及ぶ日もありました。
母の背骨には古い骨折箇所があり、身体が右側に大きく傾いていて骨折箇所の周囲は既に筋肉が捲いていて石のように固くなったままです。だから、曲がった背骨や腰骨の近くに打つ時などは鍼で神経を傷つけそうな時もありました。
こんな事は違反行為だという事を承知の上じゃないとやれるはずがない。大事な神経を傷つけて麻痺させてしまうか、それとも運動機能を少しでも戻せるかという、私の瀬戸際の選択でした。
鍼を打つと一時的に疲労します。やはり身体を傷つけるわけですからね。しかし、その傷を修復しようとする大脳からの指示で様々なホルモンが分泌されるのです。つまり、身体の組織が活性化し身体全体の免疫性が高まっていくのです。
私の鍼の打ち方はツボを優先させはしますが、古来から引き継がれる鍼の打ち方ではなくスポーツ鍼というものでしょうか筋肉を意図的に傷つけては修復能力を活性化させるというものです。柔道や空手などをする方達が特定の部位の筋肉を育てる為に打つ事があるとも聞きます。2001年の野球練習中の事故で腰椎分離骨折以外にも右肩の靱帯の一つは殆ど切れかけ、両膝にも古傷を持つ私が野球をやり続ける事ができていたのはこのスポーツ鍼のお陰でもあったのです。
こうして、鍼を打ち始めた母親の身体に変化が現われたのは3週間目くらいからでした。それは劇的な変化でした。鍼を打つと母の様子が違うのです。硬直していた筋肉がとても柔らかくなり全身に血色が蘇り、母の痛みを訴える回数さえ減っていくのです。座らせる時、立たせる時・、気づけば母はこれまでにはできていなかった身体の動きができるようになってきているではありませんか。
母は私の熱い思いに応えるかのように2003年6月も半ばに入った頃から急激な回復を見せ始めたのです。本格的な鍼やお灸にマッサージを始めてから約2ヶ月が経った頃です。
☆散歩で母の歩き癖を知った
そこでケアマネさんに相談して車椅子を借りるようにし、母を自宅近くの立田山自然公園や八景水谷公園などに連れて行く事を試みる事にしました。散歩に連れ出しては自然の草花に関心を持たせ、関心を持ったら自分で摘むようにし向け、摘む為には屈む必要があり、屈む為には一度は車椅子から自分で立上がらないといけない・・。いつの間にか屈伸運動をしていると・、私はそんな事を母の身体に伝えたかったのです。
散歩に連れ出した日の翌日は必ず母は身体のあちこちに痛みを訴えました。それは筋肉の張りだったり、関節の痛みだったりです。しかし、私はこの母の訴える痛みの場所や種類を知る事で「母の生活癖」を確認したのです。
昔だと「下駄の歯の減り具合」で歩き癖が分かったものです。人間には立ち方や歩き方から座り方までの癖があります。食事の時に右側の歯で噛むか左側の歯だけで知らず知らずに噛んでいる・・、誰にでもあるそんな癖を知りたかったのです。この生活癖を知ればリハビリの方法も変わってきます。
やがて、母はこの立田山自然公園の芝生地を右手で杖を使い、左手で私の腰のベルトを掴みさえすれば40m程度は立って歩くようになるのです。歩く事で筋肉が強化された膝の痛みも軽減しています。
驚きが喜びになり、喜びが明日への頑張りになる事を母も私も知りました。こうして、母は生甲斐を取戻し、私も人を支える事への小さな喜びに少しずつ目覚めるようになっていくのです。私は最初の感動を知ったのでした。
☆認知が気になり始める
しかし、今度は刺激のない日常に母の不満が出るようになります。母はこれまでの経過、努力の日々を殆ど記憶していないのでした。体力の回復と記憶障害の矛盾、日常への不満。TVの介護番組の中で車椅子のご老人を見掛けた時の母は、「可哀想にね・・、不自由だろうね。あんな生活にはなりたくないね」、と言うのです。。。。。
母にとっては変化も日常化してしまえば退屈さに戻る様でした。痛みが減り始め、運動量が増え、行動範囲が広がった母は次々と新たな変化を求めるようになるのです。
転倒の事も忘れ、約2ヶ月以上に渡る鍼やマッサージさえ忘れている母は、「ほら、私はこんなに元気なのに・・」、と今の自分の姿しか理解できていないのです。
身体の痛みが減ると日常的に考える内容が変わってくるのでしょうか、再び、母は「佐世保に帰りたい」、と言うようになります。「私は佐世保に帰る。帰しておくれ!」、と母が言出します。2003年の夏の頃、熊本での同居を始めて3ヶ月半を迎える頃です。
前述したように、元来、母は心臓弱く血圧も高く、そうした母を心配した同じ佐世保市内に住む長男夫婦が母を呼び寄せては同居を試みるのですが母は少しでも体調が回復すると勝手に自宅に戻っていたみたいです。長崎に住む長女の紘子の家にも行くのですが、3ヶ月も経つと、「佐世保に帰るよ」、と言い始める始末。こうして、一旦は長男や長女の家で世話になるのですが暫くすると独居を望んでは実家に戻っていたようです。
このように、佐世保で独居していた時期の母は再び三度、庭や室内で転倒しては足の指を骨折したり、肋骨を一度に4本も折った事もありました。このような経緯を母に説明し、だから今は熊本で次男の私と一緒に暮らしているんだと説得しますが母はその事実の多くを理解しようとはしません。「私が利彦の家に居た事があるって? へーっ、何の為に?。長崎の紘子の所にも居たってかい・・そんな事はないと思うけど、・・」、と言います。一度は理解しても数分もすると忘れているのです。
嫁は、「お義母さんが日増しに元気になっていくのは尚さんの鍼や按摩のお陰ですよ。分かってあげて下さい」、と言いますが、鍼?按摩?・そんなものを尚宏がしてくれたって?・知らないよ・・」。
☆2003年8月の頃。
こうした日々の中、来熊後5ヶ月目を迎える2003年の8月の頃の母は毎日ではありませんが風呂場の段差部分の歩行介助さえすれば一人でも入浴ができるまでに回復していました。それは見事なものでした。少しでも目を離した時などには杖も使わずに居間から台所への段差の2段を上がり、流しの前に立って何かをしようとしている事さえあったのです。
恐らく、退屈さも限界を迎えていたようです。この時、台所仕事を与えようとも思ったのですが、それはそれで最後には危険な包丁を使わせるまでに発展してしまう事が予測できたので、台所仕事は茶碗洗い程度にしました。左目が見えない母は遠近感が乏しい為に包丁は危険なんです。
それでも母は、「私にはお茶碗洗いしかできないとでも思うのか?」、と絡んできます。母は気丈夫というか働き者なんです。
実際の処、この茶碗洗いにしても母が洗った茶碗や皿には油や米粒が付着したままでした。両眼での視力が薄いだけが理由ではなく、指の皮膚感覚などが鈍くなっているから分からないのだと察しました。
嫁が、「お母さんのそんな洗い方じゃ・・」、と言いだそうとしますが、「よせ、言うな。洗おうとするお袋の気持ちだけでいいじゃないか。お前はお前で普段通りに後で洗い直せばいいのさ」、と制する場面がよくありました。今でこそケアマネの受験を控えるくらいのキャリアを積んだ嫁ですが、この頃の嫁は1級ヘルパーさん。まだまだ、老いがよくは分かっていない頃です。
☆2003年9月の頃、母が週1回のデイに、お得意のハモニカで人気者に。
私達は退屈がる母を2003年9月26日から週に1回だけはと同じ団地内にあるデイ施設の【Yの家】に通わせるようにしました。
元来、母は他人に気を遣う事もあるデイには向かないのではないかと思ったのですが驚くほど簡単にデイ通いを承知したのです。毎日が寂しかったのでしょうか。老いてくると食事の好みや性格も変化するようです。大好きだったはずの納豆や豆腐を嫌がったり、焼き魚にしても身の部分を避けて苦い内臓を好んで食べるようになったりします。そんな母はデイではお得意のハモニカを披露したりして人気者になり、家では、「さてと、来週は何を吹こうか」、と練習をする姿が目立つようになります。
こうして、母がデイ通いを始めてくれた事で私にも少しだけ気持ちの余裕ができ始めました。4月からこの9月まで私が職場にまともに通った日は本当に僅か。私達の暮らしはドン底でしたが、この6ヶ月、私は母との貴重な時間を過ごす事ができました。そして、努力もしました。私はこの時期に母から育てられた恩の半分を返し、朽ち始めていた母の人生を変え、生きる喜びを与えたとさえ思っています。
☆我が家に命が宿り始める:私がギターを・・
私は埃にまみれたままのギターに約30年振りに新しい弦を通しました。一度は棄てたはずの音楽でしたが、私の心の停まり木は音楽しかなかったようです。
私が楽器を握るなんて・母も喜びました。母との暮らしに音楽が加わったのです。母の吹くハモニカに合わせて弾くギター伴奏に我が家に命が宿り始めたようでした。母の吹くハモニカが再び私の中の何かを目覚めさせたのです。
母と嫁は私のギター伴奏で、「酒は涙かため息か・・」、「兎追いし彼の山・・」、「麗しき桜貝ひとつ・・」、といろんな曲を唄いました。
実は私、嫁の歌声が大好きでなんです。少しだけ音程がズレる事がありますが、それでも学生時代は熊大教育学部の音楽科にいたのです。昔から綺麗な声でまるで天使の声のようでした。私は彼女の声を聞くと心が安まりました。だから、彼女が愚痴をこぼしたり、周囲を批判したりするのが私は嫌いなのです。似合わないのです。
☆2003年10月、1作目:♪【母がピエロになっていく】を書く
こうして、2003年も10月を迎え、母との暮らしが7ヶ月目に入った頃。次第に母の口から、「佐世保」、という表現が減り、「佐々」、「深江」、「歌が浦」、という言葉が増えるようになっていました。母が幼い頃に過ごした場所です。
【母がピエロになっていく】という作品が生まれたのは本当に偶然でした。嫁が母に入浴を勧めるのですが、「あんたの世話にはならん。今日に限って妙に優しいね。いつも私は独りで風呂に入っているじゃないね・・」、と母が絡むのです。
「そうじゃないでしょ。いつも私や尚さんが浴槽に入れるまではお世話しているじゃないですか」、と嫁が説きますが無理です。そこで、「そんなふうだとイサム兄さんから叱られますよ」、と言った途端、「ハイハイ、ではではお世話になるという事でお風呂に入りましょうかね~」、と・・。
【母がピエロになっていく】という曲は、この母と嫁が風呂場でキャアキャアとはしゃいでいた間にできたのです。
「今、私はどこに居る、どうしてここに居るの?。私の母は誰?。そして父は誰?・・私は?・」、詩のすべてが母の様子を語り、母との実際の会話です。
後日、録音が済んだテープを聴きながら私は何度も嗚咽を繰返しました。少しだけですが、また変わり始めた自分の心を知ったのです。老いてゆく母が私を次々に変えていくのです。「ああ、俺は今でも母に育てられている」、心からそう感じました。
夜中にポータブルトイレを使おうとしてベッドから滑り落ち、立てない母はそのまま畳を汚しては朝まで転がっている事もありました。何故、私に助けを求めないのか・・、老いに対する怒り、老いに対する悲しさ、老いてまで気遣いを忘れない母。しかし、この頃の私には母の長い人生を思い遣る心も尊敬の気持ちも今ほどにはなかったのだと思います。
老いは誰にでもあること。老いを理解するには目の前の老いを認めることから始まります。認めるには尊敬の念が無ければいけません。
ただ現実を言えば、嫁が汚物のついた衣服を脱がせたり身体を洗おうとしたりすると母は激しく嫁を責めました。「何の為に着替えるの?、私の身体を洗うの?、私はそんなに汚いのかい!、と。母はもう昨夜の出来事をすっかり忘れているのです。こんな時、気丈夫な母だけに嫁に吐き掛ける言葉には相当に辛辣な表現もありました。この瞬間認識と瞬間記憶消失という二つの糸で織られた母の現実。この時、私は介護の大変さを痛感しました。一つ一つが始めて経験する事でした。「あの母親が・・、俺の母親が・・」、と思いました。第一、この頃の私は認知症という言葉自体を使った事がない人間だったのです。
☆一つ一つの介助に対し、その必要な理由を求める母。
仕事どころではありません。母は嫁から受ける世話を好まないものだから、一つ一つのお世話をする際に時間ばかりが掛かるのです。「はい、お義母さん。お顔を拭きますよ」、と温タオルを持った嫁が母の部屋に入れば、「私は自分で洗面所に行くのに・・」、と迷惑そうな表情をします。
「お義母さんは上手く歩けないでしょう?」、と言えば、「そんな事はないよ、私をバカにするのかい?」、と言います。「第一、私の部屋に声も掛けずに勝手に入って来ないでおくれ」、とも言います。
こんな調子で朝の起きがけの顔を拭くだけで15分は要するのです。一つの介助をするのに、何故そうする必要があるのかという事を逐一説明する事から始まるのです。すべての事に説明が必要でした。嫁だって完全ではありません。私は二人の間に割って入っては母を説得し直します。出勤直前にこうした事態が起きたりすると、「えーい、どけ俺がやる」、と携帯電話を握っては欠勤を告げ、交代要員に職場に急行して貰っていました。
☆「とんでもない事になった」。
一日の世話に疲れ果て、崩れ始めた私達の生活。私のこれからの人生を思うと、「とんでもない事になった」、と思った事が何度あった事か・・。覚悟はあったとしてもじわじわと堪えてくるのです。
歩けない母親を蔑んだ事もあります。「どうしたお袋!」、と母を責める心。「認知が言わせる言葉じゃないか。それが老いさ、俺もやがては母の気持ちも分かるさ」、と母を護る心。私の心の中ではいつも二つの人格が闘い、思案続きの日々に過呼吸症気味になっては息苦しくなる夜が何度もありました。
母もそんな私の表情を読み取るのでしょうか、「私は佐世保に帰るよ、大和町に帰りたい。それが駄目なら・いっそ殺しておくれ」、と叫びます。それは悲痛なくらいの表情で叫ぶのです。
母も悔しかったのだと思います。思うようにならない自分の身体と監視される辛さ。「こんなはずじゃない・」、という思い。「お願い、助けておくれ」、と言ってしまう自分。「いつの間に、私は・・」、と昔を振返ろうとしても思い出せない中抜けの記憶。
母はこの3~10年の自分の暮らしを断片的にしか振返れません。母が思い出す事の多くは50~80年前の事ばかりでした。しかし、母の思いは思いとして、現実には母には独居など到底無理。「ああ、姉や兄も母のこうした姿を見て途方に暮れていたんだ」、と実感させられたのでした。
☆鍼・灸・マッサージ。自分が変わって見せるしかない。
このままでは母も私達夫婦の暮らしも駄目になると、本当にそう思いました。思い悩んだ私は、「母には姉や兄と同居した時と同じ日常を与えていては駄目だ」、と考えました。今の母には長女夫婦や長男夫婦と過ごした時間とは違う、私ならではの何かを与える必要があると考えました。それが母を変えるかも知れないと思ったのです。
「そうだ、母に指圧やマッサージを試みてみよう」、と思いました。周囲が嫌がる仕事や根を上げそうな仕事をコツコツと根気よく続ける事は割と私の性分にあっているのです。マッサージくらいは誰にでもできますが・・。
私は嫁に言いました。「この現実から逃げちゃいかん。これは俺が神から科せられた修行なんだ。母に変化を望むなら自分が変わって見せるしかない」、と薄暗い部屋の中で天井を見上げて呟いていたのです。私はこの頃から妙に涙もろくなっていきました。
私は必死でした。歩行ができない母に対する朝夕のマッサージにお灸、そして、素人は行なってはいけない鍼さえも専門家の元へ習いに通いました。
鍼自体は母が来熊する以前から自分の身体に打ってはいましたが、母に打つとなると話は別です。母が訴える痛みを私自身が痛いかのような素振りで幾つかの鍼灸院に通ったのです。しかし、実際に母への鍼を施術しようとする段になると習った通りの部位へ打つというのは怖いものがありました。
結局、この頃の母への鍼は無難で安全な部位にしか打たないという、そんな程度のものになっていたようです。
☆私自身が抱えている腰椎分離骨折滑り症。
実は、母の来熊の約3年前、私は自分の野球チームの練習中に転倒して背中の一部の骨が縦に割れるという、正確には腰椎分離骨折すべり症という状態になり、背骨を支えている左右の腰椎が割れてボルトを入れて支える手術を勧められた時期がありました。
しかし、約2年を費やしてボルト固定と取り外しの2回の手術をしても完全な元の身体に戻る保証はなく、私は野球を続ける中で腹筋を鍛えて背骨を安定させる方法を選びました。現在でも背骨が臍の方向にズレたままで、天候や季節によって左右の足に痺れがあり、その度に私は自分で、「痛てっ、この野郎」、とか言いながら自分自身に施術しています。だから、私は鍼治療で痛みや痺れが消える事を自分の身体で知ってはいたのです。
☆私の迷い。草野球チームの解散を決意。
母の来熊直後の転倒、そしてその後に始めた必死のリハビリ。こうしたリハビリは母にも私にとっても大変な忍耐と努力を伴いました。
連日、母に施した全身へのマッサージに鍼やお灸。そして、寝たきり生活で関節が固くなってもいけません。私は横になった母の両足を私の胸や腹に当て、「足突っ張りさ、自転車を漕ぐようにして俺の胸や腹を蹴ってみてくれ」、と言っては母に蹴らせました。この運動が私の腹筋も鍛えてくれるのです。また、母の手の指の間に私の指を入れては「力の入れっこ」をしたり・・。
そして、私はそれまで十数年と続けた大好きな草野球チームも解散する事を決意します。因みに、私の草チームのジャガーズは1999年度は熊本全県下で20位を争う成績を残す程の自慢のチーム。当時の新聞の地方版には監督兼選手として私の活躍を報じる記事が残ってもいます。
私は職場に行く日を減らしては週の大半を母と過ごす事になりましたが、凄い決断と代償が必要でした。
☆私の仕事、嫁の事情。
私は音響や照明機器の操作をする小さな会社を経営していて、ある公共ホールの仕事をさせて頂いています。だから、ある程度は自分で勤務時間の調整ができる生活環境だった事が母の介護には幸いしました。勿論、人出不足を補う為、新たなパート従業員を雇う為の出費が重なるものですから我が家の家計には大変な影響がありました。一方、嫁は既に1級ヘルパーとして利用者宅に出向く訪問介護という就業の方法を選択していました。
母の来熊後の転倒で私達の日常が変ってしまいました。私と嫁のどちらかが必ず在宅していなければなりません。嫁はヘルパーを続けますが、私は基本的に仕事には出ない。出たとしても週に2回程度。私が出社する日には嫁は仕事に出ない。私が出社したとしても9:00~14:00勤務か15:00~19:00勤務程度。兎も角、私か嫁の何れかが必ず母を看る必要がありました。こんな状態ですから、私も嫁の収入も激減したのは当然です。また、嫁には介護福祉士の受験資格を満たす為の勤務時間の累積ができないというジレンマが相当にあったのではないかと思います。また、既述したように、嫁は嫁で既にこの時期の6年前以上も前から入院中の実母の月曜から金曜日の夕方の食事介助や院内での洗濯という大変な日課があったのです。
☆嫁が絡む・・が、手を抜いた介護で母の身体レベルが下がれば我々の暮らしも辛くなるんだ。
訪問介護の仕事に実母の介助と、嫁は相当に疲れがあって苛つく日もあったのでしょうか、「私ならそこまではしない。貴方は極度のマザコンじゃない?」、と私に絡む日が多くなります。
確かに、どうかすると私は週に1日も出社しない日さえありました。仕事には殆ど行かず、たまに出掛けた仕事でも昼過ぎに切り上げて帰宅し、真夜中まで母の世話に明け暮れるのですからね。そんな私を見ていてそんな皮肉を言いたくなるのも分かりました。介護を専門とする嫁の目にはそう見えたのでしょう。
この頃の私は、「いつまでも俺の母親でいてくれ」、という思いだけでお世話をしていたようです。また、嫁に対しても、「俺の母親だからお前だって面倒見るのは当然だろう」、という意識もあったようでした。
結局、この頃の私は介護の素人。「どうにかしたい。現状以下にはなって欲しくない。俺が留守の時間は母を寝かせるなり、あやすなり、母が動き回らぬように監視していてくれ」、と嫁に強制しているだけに過ぎなかったのです。ただ、命は一つしかありませんからね。何が正しくて何がいけないかは誰にも分からない事です。
言える事は、「少しでも快方に向かえば私達夫婦の介護も暮らしも楽になり、介護の手を抜いてしまえば母のレベルが下がる分だけその後の介護も我々の暮らしも辛くなる・・」、のは事実なんです。
☆祈りのない鍼やマッサージは効かない。
私が行なう母へのリハビリですが、母の身体は一向に応えてくれません。連日のマッサージで私の両手の指は曲がり始め、肘や肩、首筋にも痛みが走るまでになっていました。「もう・・母が歩く姿を見るのは無理・」、そう思った時期もありました。「俺は自分の身体をこんなに痛めてまで頑張っているのに母の身体は応えてくれない・・」、と思いました。
動かさない身体は益々固くなります。老人を自室に閉じ込め気味な暮しをさせる事は安全なのですが、一方では身体の衰弱を招きます。その身体に幾らマッサージを施しても意味がないのです。そんな理屈さえ私には分かっていない頃でした。介護と同居は違うんです。
☆忘れていた若き頃の山籠もり修業時代の自分。
そんなある日、2階の私の部屋の隅に人目を忍ぶように置かれたままの古びた白いビニールバッグが私の目に入ったのです。高校、大学時代と持ち続けた[私の走り書き帳]が入ったバッグでした。本当に偶然の事でしたが、フッと思い出す事があったのです。その走り書き帳の膨大な数の詩の中の一つに次のような詩があったのです。
「辛いと思う時、悲しさを憶える時、憎しみを感じる時、そして、空腹を覚える時・・、私はそんな時にはいつも母の優しさを思う。思うだけで母の白い割烹着を通して母の匂いを感じるのだ。・・・母が笑っている。その母の背にはどこまでも続く青い空が見える。海がみえる。風が吹いてきた。やがて夕焼けが始まる。そして父が帰る。ニコニコと笑っている。いつの間にか私は辛さを忘れている。いつの間にか私の悲しみが微笑みに変わっている。いつの間にか憎しみが愛おしさに変わっている。そして、いつの間にか私の空腹も満たされている。そう、・・私は今、故郷を離れて旅をしているのだ。・・もう、私はこのまま朽ちても構わない。それは幸せが何かを知ったから、そして、それを貰うだけで与える事ができない自分を知ったから。神よ、せめて私をあの青い空に運んでくれ。何故なら、あの空の上から母を見守り続けたいから・・・」。
これは私が食料も持たずにジュラルミン製のナイフ1本で山に出掛け、半ば死に憧れるかのように山篭もりを繰返していた20歳の頃に書いた詩の一節でした。
父は明治35年生まれ。私は父が48歳の時の子供。私が20歳の時には父は既に68歳。私には年老いた両親を思う故にスポーツに音楽に文学に自ら潰してしまった夢が数多くありました。
大学2年の時、音楽では中央からの誘いもあって退学を考えました。「学園闘争が終わった今、君の斬新なスタイルの詩はこれからの日本の若者には不可欠なものになるだろう」、という評価を受けて悩んだのです。
当時はフォークソングブームの最中。流行する曲の多くは、「愛だ、恋だ」、と青春を謳歌する作品ばかり。そんな中での私は、「異色の学生フォークシンガー」、に見えたのかも知れません。しかし、普段から音楽家の事を「河原芸人、河原乞食」、と表現して堅実な思考をする父親の「まずは大学卒業だ。止めとけ」、という一言で断念したのです。
そして、もう一編の、「優しさなら自分の命を差し出すほどの優しさを示せ、怒りなら相手の命を奪うほどに示せ。神はその何れにも力を貸してくれる・・、喉が乾いたなら己の血を飲め、腹が減ったか己の身を喰め・・、いつもお前はそうして生き抜いてきた・・。今は生きるのだ。・・・」 、という私の激しい性格を物語る表現の詩にも惹きつけられました。これも山籠もりの最中に書いた詩でした。私は自分が書いた30数年前のこの2編の対照的な詩を読みながら感じるモノがありました。
それは、[優しさの裏にある覚悟]、というものでした。
☆信念、覚悟を示すものは同じ行為の継続。
優しさや厳しさって・、時には継続する事を求められます。継続しない瞬間的な優しさや厳しさ、涙や言葉は人間としての軽さ以外の何でもない、とさえ私は思っています。信念や真心を示す指標は同じ行為の継続なんです。
介護同居って継続が求められます。覚悟がないとできません。
居を同じくするって事は、生を同じくする事。生を同じくするって事は命を分け合う事だと私は覚悟しています。命は先祖からの、或いは神からの預かりもの。預かりものである以上、必要であれば私は嫁にだって命を分けてやるべきだと思います。
☆祈り、それは念
父や母や嫁に与える、或いは貰う感謝の気持ちって一緒にいる時にはなかなか感じる事ができず、遠くに離れてみて感じる事が多いものです。それは離れて暮らすお互いが[祈りという念]、を送り合っているからこそです。
「ふる里は遠くにありて思うもの・・」、って言いますが、離れてみて知る故郷に住む父や母、友人のありがたさ、とでもいう意味でしょうか。しかし、来熊後の母と私との間には馴れ合いや我が儘さが出始めていたんです。
私は、私と母のお互いが「互いを思い遣る祈りの念」、というものが薄くなってきている事に気付いたのです。同居を開始して以来、「あそこが痛い、ここもまだ痛い」。
「・・うーん、あれ程揉んだのに・・明日でいいだろう」、の繰返しであって、そこには母の強くなる一方の依存心とその日限りの私の達成感だけしかない事に気づいたのでした。また、母の介護の為に私の勤務時間を減らした結果、生活レベルが落ちていく事での将来への不安。そんなモノへの拘りや焦りが多いにあったのだろうと思います。
この20歳の時に書かれた自分の詩を読んだ私は大切な事を思い出したのです。私の目の前にいる母は私の記憶の中にある母じゃない・・。
私は母の現実を直視できずにいる自分に気づいたのでした。
「老いた母親と分かった上での同居なんだ」、とどうしても思う事ができない結果、単に自分への誓いを満たす為だけの心のないマッサージや鍼をしていたのではないか、と気づいたのです。恐らく、この頃にデイ施設の利用を思いついていたとしても受容れる施設は見つからず、整形外科への入院になっていたと思います。母の身体の運動機能はその程度に落ちていたのでした。
☆2003年6月の頃。母の身体に好転の兆しが・・。
それからの私はためらっていた鍼を中心にしたリハビリに集中するようになりました。鍼は医療行為ですから素人は禁止されています。しかし、自分自身に対して打つ事は誰にも止める事は出来ません。「もう、打つしかない」、私は母への本格的な鍼を決断したのです。鍼を本格的に母親の身体に打つのは怖いものがありました。しかし、姉の、「私は尚宏を信じる。母の身体は何もしないならいつまで待っても何も変わらない・、尚宏が誠意を込めて打てば変わるかもしれない」、という言葉で決心したのでした。
朝夕に限らず、深夜にも打つ場所を変えて打ちました。後頭部、側頭部、首筋から背中、腰にかけては背骨に沿って両足と全身に及ぶ日もありました。
母の背骨には古い骨折箇所があり、身体が右側に大きく傾いていて骨折箇所の周囲は既に筋肉が捲いていて石のように固くなったままです。だから、曲がった背骨や腰骨の近くに打つ時などは鍼で神経を傷つけそうな時もありました。
こんな事は違反行為だという事を承知の上じゃないとやれるはずがない。大事な神経を傷つけて麻痺させてしまうか、それとも運動機能を少しでも戻せるかという、私の瀬戸際の選択でした。
鍼を打つと一時的に疲労します。やはり身体を傷つけるわけですからね。しかし、その傷を修復しようとする大脳からの指示で様々なホルモンが分泌されるのです。つまり、身体の組織が活性化し身体全体の免疫性が高まっていくのです。
私の鍼の打ち方はツボを優先させはしますが、古来から引き継がれる鍼の打ち方ではなくスポーツ鍼というものでしょうか筋肉を意図的に傷つけては修復能力を活性化させるというものです。柔道や空手などをする方達が特定の部位の筋肉を育てる為に打つ事があるとも聞きます。2001年の野球練習中の事故で腰椎分離骨折以外にも右肩の靱帯の一つは殆ど切れかけ、両膝にも古傷を持つ私が野球をやり続ける事ができていたのはこのスポーツ鍼のお陰でもあったのです。
こうして、鍼を打ち始めた母親の身体に変化が現われたのは3週間目くらいからでした。それは劇的な変化でした。鍼を打つと母の様子が違うのです。硬直していた筋肉がとても柔らかくなり全身に血色が蘇り、母の痛みを訴える回数さえ減っていくのです。座らせる時、立たせる時・、気づけば母はこれまでにはできていなかった身体の動きができるようになってきているではありませんか。
母は私の熱い思いに応えるかのように2003年6月も半ばに入った頃から急激な回復を見せ始めたのです。本格的な鍼やお灸にマッサージを始めてから約2ヶ月が経った頃です。
☆散歩で母の歩き癖を知った
そこでケアマネさんに相談して車椅子を借りるようにし、母を自宅近くの立田山自然公園や八景水谷公園などに連れて行く事を試みる事にしました。散歩に連れ出しては自然の草花に関心を持たせ、関心を持ったら自分で摘むようにし向け、摘む為には屈む必要があり、屈む為には一度は車椅子から自分で立上がらないといけない・・。いつの間にか屈伸運動をしていると・、私はそんな事を母の身体に伝えたかったのです。
散歩に連れ出した日の翌日は必ず母は身体のあちこちに痛みを訴えました。それは筋肉の張りだったり、関節の痛みだったりです。しかし、私はこの母の訴える痛みの場所や種類を知る事で「母の生活癖」を確認したのです。
昔だと「下駄の歯の減り具合」で歩き癖が分かったものです。人間には立ち方や歩き方から座り方までの癖があります。食事の時に右側の歯で噛むか左側の歯だけで知らず知らずに噛んでいる・・、誰にでもあるそんな癖を知りたかったのです。この生活癖を知ればリハビリの方法も変わってきます。
やがて、母はこの立田山自然公園の芝生地を右手で杖を使い、左手で私の腰のベルトを掴みさえすれば40m程度は立って歩くようになるのです。歩く事で筋肉が強化された膝の痛みも軽減しています。
驚きが喜びになり、喜びが明日への頑張りになる事を母も私も知りました。こうして、母は生甲斐を取戻し、私も人を支える事への小さな喜びに少しずつ目覚めるようになっていくのです。私は最初の感動を知ったのでした。
☆認知が気になり始める
しかし、今度は刺激のない日常に母の不満が出るようになります。母はこれまでの経過、努力の日々を殆ど記憶していないのでした。体力の回復と記憶障害の矛盾、日常への不満。TVの介護番組の中で車椅子のご老人を見掛けた時の母は、「可哀想にね・・、不自由だろうね。あんな生活にはなりたくないね」、と言うのです。。。。。
母にとっては変化も日常化してしまえば退屈さに戻る様でした。痛みが減り始め、運動量が増え、行動範囲が広がった母は次々と新たな変化を求めるようになるのです。
転倒の事も忘れ、約2ヶ月以上に渡る鍼やマッサージさえ忘れている母は、「ほら、私はこんなに元気なのに・・」、と今の自分の姿しか理解できていないのです。
身体の痛みが減ると日常的に考える内容が変わってくるのでしょうか、再び、母は「佐世保に帰りたい」、と言うようになります。「私は佐世保に帰る。帰しておくれ!」、と母が言出します。2003年の夏の頃、熊本での同居を始めて3ヶ月半を迎える頃です。
前述したように、元来、母は心臓弱く血圧も高く、そうした母を心配した同じ佐世保市内に住む長男夫婦が母を呼び寄せては同居を試みるのですが母は少しでも体調が回復すると勝手に自宅に戻っていたみたいです。長崎に住む長女の紘子の家にも行くのですが、3ヶ月も経つと、「佐世保に帰るよ」、と言い始める始末。こうして、一旦は長男や長女の家で世話になるのですが暫くすると独居を望んでは実家に戻っていたようです。
このように、佐世保で独居していた時期の母は再び三度、庭や室内で転倒しては足の指を骨折したり、肋骨を一度に4本も折った事もありました。このような経緯を母に説明し、だから今は熊本で次男の私と一緒に暮らしているんだと説得しますが母はその事実の多くを理解しようとはしません。「私が利彦の家に居た事があるって? へーっ、何の為に?。長崎の紘子の所にも居たってかい・・そんな事はないと思うけど、・・」、と言います。一度は理解しても数分もすると忘れているのです。
嫁は、「お義母さんが日増しに元気になっていくのは尚さんの鍼や按摩のお陰ですよ。分かってあげて下さい」、と言いますが、鍼?按摩?・そんなものを尚宏がしてくれたって?・知らないよ・・」。
☆2003年8月の頃。
こうした日々の中、来熊後5ヶ月目を迎える2003年の8月の頃の母は毎日ではありませんが風呂場の段差部分の歩行介助さえすれば一人でも入浴ができるまでに回復していました。それは見事なものでした。少しでも目を離した時などには杖も使わずに居間から台所への段差の2段を上がり、流しの前に立って何かをしようとしている事さえあったのです。
恐らく、退屈さも限界を迎えていたようです。この時、台所仕事を与えようとも思ったのですが、それはそれで最後には危険な包丁を使わせるまでに発展してしまう事が予測できたので、台所仕事は茶碗洗い程度にしました。左目が見えない母は遠近感が乏しい為に包丁は危険なんです。
それでも母は、「私にはお茶碗洗いしかできないとでも思うのか?」、と絡んできます。母は気丈夫というか働き者なんです。
実際の処、この茶碗洗いにしても母が洗った茶碗や皿には油や米粒が付着したままでした。両眼での視力が薄いだけが理由ではなく、指の皮膚感覚などが鈍くなっているから分からないのだと察しました。
嫁が、「お母さんのそんな洗い方じゃ・・」、と言いだそうとしますが、「よせ、言うな。洗おうとするお袋の気持ちだけでいいじゃないか。お前はお前で普段通りに後で洗い直せばいいのさ」、と制する場面がよくありました。今でこそケアマネの受験を控えるくらいのキャリアを積んだ嫁ですが、この頃の嫁は1級ヘルパーさん。まだまだ、老いがよくは分かっていない頃です。
☆2003年9月の頃、母が週1回のデイに、お得意のハモニカで人気者に。
私達は退屈がる母を2003年9月26日から週に1回だけはと同じ団地内にあるデイ施設の【Yの家】に通わせるようにしました。
元来、母は他人に気を遣う事もあるデイには向かないのではないかと思ったのですが驚くほど簡単にデイ通いを承知したのです。毎日が寂しかったのでしょうか。老いてくると食事の好みや性格も変化するようです。大好きだったはずの納豆や豆腐を嫌がったり、焼き魚にしても身の部分を避けて苦い内臓を好んで食べるようになったりします。そんな母はデイではお得意のハモニカを披露したりして人気者になり、家では、「さてと、来週は何を吹こうか」、と練習をする姿が目立つようになります。
こうして、母がデイ通いを始めてくれた事で私にも少しだけ気持ちの余裕ができ始めました。4月からこの9月まで私が職場にまともに通った日は本当に僅か。私達の暮らしはドン底でしたが、この6ヶ月、私は母との貴重な時間を過ごす事ができました。そして、努力もしました。私はこの時期に母から育てられた恩の半分を返し、朽ち始めていた母の人生を変え、生きる喜びを与えたとさえ思っています。
☆我が家に命が宿り始める:私がギターを・・
私は埃にまみれたままのギターに約30年振りに新しい弦を通しました。一度は棄てたはずの音楽でしたが、私の心の停まり木は音楽しかなかったようです。
私が楽器を握るなんて・母も喜びました。母との暮らしに音楽が加わったのです。母の吹くハモニカに合わせて弾くギター伴奏に我が家に命が宿り始めたようでした。母の吹くハモニカが再び私の中の何かを目覚めさせたのです。
母と嫁は私のギター伴奏で、「酒は涙かため息か・・」、「兎追いし彼の山・・」、「麗しき桜貝ひとつ・・」、といろんな曲を唄いました。
実は私、嫁の歌声が大好きでなんです。少しだけ音程がズレる事がありますが、それでも学生時代は熊大教育学部の音楽科にいたのです。昔から綺麗な声でまるで天使の声のようでした。私は彼女の声を聞くと心が安まりました。だから、彼女が愚痴をこぼしたり、周囲を批判したりするのが私は嫌いなのです。似合わないのです。
☆2003年10月、1作目:♪【母がピエロになっていく】を書く
こうして、2003年も10月を迎え、母との暮らしが7ヶ月目に入った頃。次第に母の口から、「佐世保」、という表現が減り、「佐々」、「深江」、「歌が浦」、という言葉が増えるようになっていました。母が幼い頃に過ごした場所です。
【母がピエロになっていく】という作品が生まれたのは本当に偶然でした。嫁が母に入浴を勧めるのですが、「あんたの世話にはならん。今日に限って妙に優しいね。いつも私は独りで風呂に入っているじゃないね・・」、と母が絡むのです。
「そうじゃないでしょ。いつも私や尚さんが浴槽に入れるまではお世話しているじゃないですか」、と嫁が説きますが無理です。そこで、「そんなふうだとイサム兄さんから叱られますよ」、と言った途端、「ハイハイ、ではではお世話になるという事でお風呂に入りましょうかね~」、と・・。
【母がピエロになっていく】という曲は、この母と嫁が風呂場でキャアキャアとはしゃいでいた間にできたのです。
「今、私はどこに居る、どうしてここに居るの?。私の母は誰?。そして父は誰?・・私は?・」、詩のすべてが母の様子を語り、母との実際の会話です。
後日、録音が済んだテープを聴きながら私は何度も嗚咽を繰返しました。少しだけですが、また変わり始めた自分の心を知ったのです。老いてゆく母が私を次々に変えていくのです。「ああ、俺は今でも母に育てられている」、心からそう感じました。
2008年08月05日
・同居記録:5
☆2003年11月~2004年3月の頃/ 昔を語る母、今が分からない母。
やがて、入浴を済ませた後の母はベッドや居間で横になり、私のマッサージを受ける度に自分の生い立ちから現在迄を思いつくままに語り始めます。
この時期の母と私達夫婦の日々には私の知らない母が次々と登場し、夜は寝るのを忘れるほどに昔話しに花が咲き、嫁も必死でメモをとりました。今の嫁は私よりも母の歴史を知っています。
この時期、生き生きとした母からの昔話は徐々に私の人生観に影響を与え始めるようになります。老いた者からしか学べないモノって意外に多いんです。日本人が日本人を自覚するには老人を知る事かも知れません。
2003年3月末から始めた母との同居。この時期の母は要介護度2。身体機能は見違えるほどに回復したのですが、認知の方は確実に進行していました。母は長崎に住む長女の紘子からの電話を毎晩のように待っていました。それは母が母に戻る瞬間でもあり、故みつ子姉からの電話を待つ妹に戻っている母の姿でもありました。
長崎に住む長女との会話がブツンと切れる事が多くなります。母が長女・紘子の妹になったり母になったりするから会話にならないのです。熊本と佐世保、佐世保と深江、伊万里と佐世保の識別さえできなくなっていく母の姿でした。
「あんたはみつ子さんじゃないって?・・ああ、紘子か・そうだったね。情けないね・、一体、私には子供が何人居るの?」。そんな事が話の核になる日が多く、長女から持ち出す話題も日増しに少なくなっていくのでした。
☆2004年1月。2作目:♪【春待ち人】を書く
この日課となった長崎の長女と交わす電話にしても受話器を置いて暫くすると、「どれ、紘子からの電話はないし、たまには私からかけようかね・・」、再び長崎の姉を呼び出したり、
電話が終われば、「ね、尚宏、・・今の電話は誰からだった?」。と言出す日も増えてきます。身体の痛みが減る分だけ認知が進み易いのでしょうか。母は確実に瞬間瞬間を生きる老人になっていくようでした。
・・老いは冬場に進みますね。「降る雪は花の香りを奪い、木々の緑さえすべて覆い隠し、母の記憶さえも奪うかのように包み隠していく・・」、私はこの時期に2作目となる【春待ち人】を作ったのでした。母親の人生って悲しい事の方が多い。私達に自らの命のすべてを与え、確実に廃人のようになっていく母・・。そんな母を思って書いたのが【春待ち人】でした。
☆2004年2月。デイ通いを止める
2004年2月26日、母は突然にデイ通いを止めてしまいました。丁度、母の91歳の誕生日でした。デイでの昼食中に真向かいに座るおじいちゃんが母の皿の上のかぼちゃの煮込み料理を手掴みで奪った事が原因でしたが、このおじいさんは普段から周囲に向かって空咳きをしたり、痰を吐いたりする人だったようです。母の怒りは尋常ではありませんでした。
元来、母は穏やかな人というのが私達子供達の認識なのですが、認知が進んでいく過程の中で突然に母の時間が戻り、母の中に潜む炭坑一族の気の荒さが現われた出来事でした。勿論、この性格は私自身も色濃く引き継いでいるようです。
因みに、母は長崎では炭坑王と呼ばれて日本最初の銀行まで立上げようとした濱野治八を筆頭とする浜野一族の出身。嫁いだ相手(高橋利三郎)は元外交官で宮崎県庁勤め。その父は県庁を退職して母方の炭坑経営を手伝うのですが、やがて斜陽化の波の訪れを待っていたかのように任されていた伊万里市の炭坑を手放しました。60歳目前で転職した父と共に佐世保市に移り住み、苦労の連続の中で私達兄弟を育てた挙句、その夫を75歳で亡くしたのは母が64歳の時。以後、独居の寂しさの中で暮らす母を母の兄弟達が慰めに来てくれたりした時期もありましたが、その姉や兄達も次々と他界します。
☆2004年3月。母との同居が1年を迎える
団地内にある【Yの家】へのデイ通いを止めた母は毎日の退屈さから再び我が儘になっていきます。家でゴロゴロと・・行動範囲が狭くなった母は再び歩行能力が低下し、入浴時にも介助が必要な日が増えてきます。
このままでは元の暮らしに戻ってしまうと思った私は再び自宅から車で5~6分の場所にある立田山自然公園での歩行訓練を開始します。私が職場に復帰したのは僅かの期間。再び、母と過ごす時間が必要になったのです。
「膝が腰が痛いのは生きている証拠。筋肉を鍛えれば多少の関節の痛みは消えるさ。独り暮らしがしたいなら頑張れよ」、と励ませば、母は「うん、来年の正月には佐世保であんたや孫には小遣いもやらにゃ・。えーと、私の家は佐世保だったよね」。起伏ある立田山自然公園の芝生地で母は必死に頑張りました。
この時期、私も職場のスタッフに再びの迷惑を掛ける上に収入も減り、私達夫婦にとっても辛い時期ではありましたが、母自身は心から充実していた時期だったと思います。
やがて、母は立田山自然公園遊歩道を杖をつきながらも以前のように40m以上を歩くようになり、「尚宏・車椅子は今日はもういいよ」、と日によっては休みをいれながら約800mを歩く事さえありました。2004年3月、母との同居が1年を迎える頃です。
☆同3月。脳の軟化って・・。/3作目:♪【立田山自然公園にて】を書く
自然認知は老化による脳の軟化が引き起すものです。軟化が進んだ脳の部位が運動機能と関係する場合には立つ、座る、歩くなどのリハビリにも限度があるといいます。言語を支配する部位の軟化が進むと言葉の呂律が回らない、言葉自体の意味や日本語自体を忘れる事もあるとか・・。だから、私は生活苦なんかどうでも良かったのです。目の前の母の老いを何とか食い止めたいとの一心でした。
そして、母の回復力は凄いモノでした。気丈夫な面は勿論、私との相性がいいのでしょうか?。時折、私が使う激しい叱咤激励の言葉に対しても素直に聞いてくれるのです。「頑張るのは俺じゃない、あんたさ」、「うん」。
「それで一番楽になるのもあんたさ」、「うん」。
私はこの立田山自然公園という場所で母と心の友達になれた気がしています。母との同居暮らしを始めて1年目を迎えたのです。
「尚宏、そろそろ帰ろうか?、今度来る時はおむすびでも作ってやろうかね」、「そうね、たくあんも頼むよ」。
この立田山自然公園は「母に母を自覚させる場所」でもあるようでしたが、私自身が子供に戻る場所かも知れません。こうして、2004年3月に3作目となる【立田山自然公園にて】ができたのです。
☆2004年5月~12月の頃/「イサムおじちゃん・・」。
時折、母は私の事を、「イサムさん」、とか、「イサムおじちゃん」、と呼ぶ日があります。しかし、私は母が自分の記憶の矛盾に気づくまで放っておきます。話を中断させて修正するより、最後まで話を続けさせる事で自分で間違いに気づく事が多いからです。
イサムさんとは[河内勇]という母11歳違いの亡き実兄です。私の母は幼い頃の勇兄さんの優しさをいつも口にしています。そして、母は私がこのイサム叔父に風貌や性格が似ているものだからよく勘違いをするのです。
母が嫁の言葉に協力しようとしない時など、「そんなだとイサムさんから叱られますよ」、と嫁が言えば、「はい、分かりました。叱られたら大変だ」、と急に素直になります。幼い頃の母が11歳年上のイサム兄さんをいかに慕っていたかがよく分かるのです。
☆「短命を知るや知らずや蝉しぐれ」。4作目:♪【蝉しぐれ】を書く
話を戻して2003年初夏の夜。私は嫁が入浴介助をしてくれて寝床に就いたばかりの母を団扇で扇いでいました。母は部屋のクーラーを勿体ないからと嫌がるのです。その団扇には「短命を知るや知らずや蝉しぐれ、ツヤ87歳」、という句が書いてありました。独居をしていた時期の母が87歳の時に佐世保の自宅で詠んだものでした。
突然、母が、「蝉しぐれという題名の曲を作っておくれよ」、と言うのです。歩行には自信をつけたのでしょうが年寄りって入浴で体力を消耗します。母は風呂から上がる度、「気持ちいいけど風呂って疲れる」、ってよく言います。また、この頃の母は体力に自信を持つ一方で自分の余命を冷静な口調で語る日もありました。死ぬ時は独りで、そして畳の上でと母が独居に非常に拘っていた理由が分かった気がしました。
「蝉しぐれというお題で曲作りか・・そうね、作ってみようか」。
この頃の私は【母に生命を返す時】などというCDを作る事になるなど全く思ってもなく、単に季節毎の母の日常を日記代りに詩にでもして残せれば・・という程度の思いだけでした。
早速、私は詩作りを開始し、曲作りの途中で母に唄って聞かせるのですが。「そりゃ・・、何の歌ね?、誰の事ね・・」。そんな事がありながら2004年5月、母との同居が13ヶ月目の頃に4作目となる【蝉しぐれ】ができたのです。
☆リハビリに集中、音楽どころではない。当分は作品作りをやめよう
母は2004年の2月26日にデイ通いをやめて以来、既に3ヶ月を経過していました。しかし、ひたすらに立田山自然公園での私との歩行訓練に励んでは劇的な機能回復を見せたのです。
杖をつき、左手は私の腰のベルトを握りさえすれば1.2Km程度を歩いた事もあります。また、途中の山道に置き忘れてきたタオルを取りに戻っては1.8Km以上を歩いた事さえありました。この立田山自然公園は母が大好きな場所になっていきます。
「これはいい・・まだまだ、頑張れる」。この後の私は一切の詩作も曲作りも止め、母の更なるリハビリに集中する事にしました。
認知が進むのは仕方がない・・。幼い頃の記憶に従って思考して言葉を発したり行動をとろうとするのが認知症の特徴であれば、その認知の症状を逆利用してリハビリしてみようと思ったのです。
母の記憶の多くを支配しているのは場所で言えば深江や歌が浦での暮らし。人物であれば幼い頃の母の手を握っては優しく諭してくれた次男のイサム兄さんです。
意識の「すりこみ」、というのでしょうか。鍼に灸、マッサージに散歩と週の多く、一日の時間の多くを私と過ごす事が多くなった母は事ある毎に私の事を「イサムさん」、「おじちゃん」、と呼んでは私とイサムさんを勘違いするケースが増えていました。私は母がそう思う事で心が安らぐのならそれで構わないじゃないか、と思うようにしました。
「それは違う、あんたの間違いで俺はあんたの息子の尚宏だよ」、と幾ら修正しても何の意味もないのです。分からなかった事を次々と覚えていく子供の成長現象ではありませんからね。認知とは日常から現在が欠落していく過程を言うんです。
☆母が台所で包丁を握った日
母は春の水前寺公園の桜、大津の清正公公道のツツジにも母は感嘆の声を上げていました。嫁は熊本城の桜や夏には米どころの菊池を案内し、名産の米を買って帰ったようです。合志町では私は公園に実った山桃の実をこっそりと取って食べた事もあります。「ほー、山桃が珍しいね。誰も見ちゃおらんよ。ホホ、採らんね」、と母が言うからです。
やがて、母は再び僅かな介助だけで入浴が出来るようになります。また、私がパソコンなどに集中してしまって母の観察がおろそかになった時など、はっと気づけば母が台所でフラフラと何かをしていそうな姿を見てドキッとする事が目立つようになります。母はガス器具の操作が分からないだけで、実際には茄子の皮を綺麗に剥いて切り揃えていた事もありました。「尚宏・、魚の煮付けにはおナスが合うよ」、って。この頃の母には包丁を使わせても安心できる日があったのです。
☆2004年10月の頃。8ヶ月振りのデイ通い再開:今度は毎日、2つのデイ施設へ。
日常に自信をつけた母は生甲斐を蘇らせたように2004年10月12日からは再び【Yの家】へ通うようになりました。2004年2月26日以来の約8ヶ月振りのデイへの復帰でした。しかも今回のデイ通いは毎日。
そして、11月5日からは別なデイ施設の【K苑】へと母は曜日別に2箇所のデイ施設へ出掛けるまでになったのです。このデイは9:00~16:00の時間帯でしたので私も通常モードに近い勤務へと復帰した時期です。
K施設での母はお得意のハモニカを披露して人気者になっていた模様ですが、ここでもテーブルの上に置いていたハモニカを誰かが勝手に吹いたからとゴミ箱に棄てて帰り、「もう、K施設には行かない・・」、と言出したり、「でも、あそこのご飯は美味しいからね・・」、と思い直したりして母なりに自分の身体の状態が良くなってきているのを実感していたのだと思います。それとも、「行くのは嫌だ」、と言い始めたらイサムおじちゃんに叱られるとでも思っていたのかも知れません。
ハモニカを吹く事で母の心肺能力が高まり、メロデイを思うだけで脳も活性化されるのでしょうね。顔色も皮膚の艶もよくなるようでした。
☆2005年2月。母が風呂で眠り、浴槽に浮いていた事件が・
2005年を迎え、92歳の誕生日直前の2月23日から母の言動が突然におかしくなるのです。朝の食事中に居眠りを始めたりお酒に酔ったかのように言葉の呂律が回らなくなり始め、2月24日には入浴中に眠ってしまって嫁が気づいた時には浴槽に浮いているという事件を起こしてしまったのです。
嫁は、「お義母さん、上がりましょうか?」、と尋ねたのですが、「まだ、いいよ」、と母は返事する一方で浴槽の中で眠り始めたようでした。嫁のせいではありません。母の事を一番理解して共にする時間も長い私が予知しなければいけない事件でした。全く私の不注意で起きた事でした。
母は夜中に国立病院に搬送されCTでの検査の結果、脳に多少の出血が見られるが以前からのものとも考えられる。様子をみたいという事で血圧も落着いた早朝には帰宅しました。
気になる事があった私は帰宅早々、母の服用している薬を調べました。数日前の近所のクリニックの定期診察で多少の血圧上昇が見られるという事で降圧剤の量が増やされていたのです。アダラートという降圧剤の一日服用量が15mgから30mgに増量されていて、これが食事中や風呂で眠ったり言葉の呂律が回らなくなったり、風呂場での判断力が鈍った原因だったとは断言しませんが、インターネットの医学書の文献などで調べた限りでは降圧剤の副作用としては、「脱力感や判断力の低下」、は十分にあり得る事でした。
☆母は護られ、生かされている
国立病院から自宅に帰ってからの母はひたすらに眠り続けました。風邪をひいている訳でもないのに顔と限らず、全身が赤くなるほどに高熱も続き血圧も脈拍も再び不安定になりました。私は両手に氷袋を持ち、眠り続ける母の全身を冷やしました。そして、母の頭を抱え込み、「神様、俺と母の命を交換してくれ・・頼むよ。頼むよ」、と、何度も呟いていました。嫁は、「あの時はソバで見ていて気持ちが悪かった」、と言いますが、母が眠り続けて1週間目に入った頃の夕方でした。
母はハッキリとした口調で、「尚宏・・、どこに居るのね?・・、お腹が空いたよ」、と自分の部屋で叫んでいたんです。この時、私は不思議に母の出身の濱野一族の力を感じました。何かの力が母に働いているような気がしたのです。私が幼い頃に何度となく感じた不思議な力でした。「母は誰かに護られ、生かされている・・」。私はそう思ったのです。
☆2005年6月の頃。デイ通いを2箇所から1ヶ所にする
やがて、母は以前のようにデイに通うようにまで回復したのですが2005年6月28日にはデイ通いを一旦は辞めます。2箇所のデイ施設よりも1箇所にしようという理由からでした。マイペースな人で強要されるのが嫌いな母には広いスペースを持つ施設の方が似合うような気がしました。
こうして、2005年7月1日から市内の【K苑】での月~土曜の16:00迄のデイに通うようになります。母の言動も落着き、私もようやく・と言うか、何度となく中断した職場復帰が果たせた時期でした。
☆2005年7月/1年2ヶ月振りに楽器を触る。5作目♪【母のクーデター】を書く
精神的にゆとりを取戻した私は再びギターやピアノを触る機会が増えてきます。[蝉しぐれ]を書いた2004年5月以来、実に1年2ヶ月振りに楽器を持つ気になったのです。
2005年の7月のある日、職場の壁にピンで留められたままになっている【母のクーデター】という詩に目が入りました。「2003年、夏・・母が突然、騒ぐ、こんな所に連れてきて、あんたはひどい息子さ・・」。
この詩は2003年の夏の出来事を書いた詩ですが、書いたのは2003年の晩秋の頃ではなかったかと思います。私は一気に曲を付けていました。
この【母のクーデター】という作品は5作目です。実に14ヶ月振りの曲作りでしたが、作曲には確か4分と要しなかったと覚えています。私はこの作品を切っ掛けにして再び曲作りへの意欲が湧くようになりました。
この【母のクーデター】とは、この時から2年前の2003年夏の次のような出来事でした。
立田山自然公園でのリハビリで歩行に自信をつけた母は、「これなら一人でも暮らせる」、と本気で思い始めていたのだと思います。ある日、「私は帰るよ」、と言い始めました。「これ以上は迷惑掛けたくないから」、と言います。
「無理だ」、と言えば、「皆で私をあちこち引回して、私は辛いよ。私はどこも何ともないのに・・、あんたはひどい息子さ」。そう言う母は私が躊躇している間によろける足を杖で支えて本当に家から姿を消したのです。母の手提げバッグには貯金通帳も入っていました。団地を幾ら探しても見つかりません。警察への捜索願いも出しました。
結局、夕方には私の家から50mほどの距離にある自動販売機の横に座り込んでいる母が見つかったのです。ひどい脱水状態になっていました。
本人曰く、「私しゃ、何しとったと?」。「タクシー見つけて郵便貯金を引き出して貰うつもりだった」、と怖い事を言っていました。
この出来事があった時点で母の認知が更に進み始めたと判断した私は
やがて、入浴を済ませた後の母はベッドや居間で横になり、私のマッサージを受ける度に自分の生い立ちから現在迄を思いつくままに語り始めます。
この時期の母と私達夫婦の日々には私の知らない母が次々と登場し、夜は寝るのを忘れるほどに昔話しに花が咲き、嫁も必死でメモをとりました。今の嫁は私よりも母の歴史を知っています。
この時期、生き生きとした母からの昔話は徐々に私の人生観に影響を与え始めるようになります。老いた者からしか学べないモノって意外に多いんです。日本人が日本人を自覚するには老人を知る事かも知れません。
2003年3月末から始めた母との同居。この時期の母は要介護度2。身体機能は見違えるほどに回復したのですが、認知の方は確実に進行していました。母は長崎に住む長女の紘子からの電話を毎晩のように待っていました。それは母が母に戻る瞬間でもあり、故みつ子姉からの電話を待つ妹に戻っている母の姿でもありました。
長崎に住む長女との会話がブツンと切れる事が多くなります。母が長女・紘子の妹になったり母になったりするから会話にならないのです。熊本と佐世保、佐世保と深江、伊万里と佐世保の識別さえできなくなっていく母の姿でした。
「あんたはみつ子さんじゃないって?・・ああ、紘子か・そうだったね。情けないね・、一体、私には子供が何人居るの?」。そんな事が話の核になる日が多く、長女から持ち出す話題も日増しに少なくなっていくのでした。
☆2004年1月。2作目:♪【春待ち人】を書く
この日課となった長崎の長女と交わす電話にしても受話器を置いて暫くすると、「どれ、紘子からの電話はないし、たまには私からかけようかね・・」、再び長崎の姉を呼び出したり、
電話が終われば、「ね、尚宏、・・今の電話は誰からだった?」。と言出す日も増えてきます。身体の痛みが減る分だけ認知が進み易いのでしょうか。母は確実に瞬間瞬間を生きる老人になっていくようでした。
・・老いは冬場に進みますね。「降る雪は花の香りを奪い、木々の緑さえすべて覆い隠し、母の記憶さえも奪うかのように包み隠していく・・」、私はこの時期に2作目となる【春待ち人】を作ったのでした。母親の人生って悲しい事の方が多い。私達に自らの命のすべてを与え、確実に廃人のようになっていく母・・。そんな母を思って書いたのが【春待ち人】でした。
☆2004年2月。デイ通いを止める
2004年2月26日、母は突然にデイ通いを止めてしまいました。丁度、母の91歳の誕生日でした。デイでの昼食中に真向かいに座るおじいちゃんが母の皿の上のかぼちゃの煮込み料理を手掴みで奪った事が原因でしたが、このおじいさんは普段から周囲に向かって空咳きをしたり、痰を吐いたりする人だったようです。母の怒りは尋常ではありませんでした。
元来、母は穏やかな人というのが私達子供達の認識なのですが、認知が進んでいく過程の中で突然に母の時間が戻り、母の中に潜む炭坑一族の気の荒さが現われた出来事でした。勿論、この性格は私自身も色濃く引き継いでいるようです。
因みに、母は長崎では炭坑王と呼ばれて日本最初の銀行まで立上げようとした濱野治八を筆頭とする浜野一族の出身。嫁いだ相手(高橋利三郎)は元外交官で宮崎県庁勤め。その父は県庁を退職して母方の炭坑経営を手伝うのですが、やがて斜陽化の波の訪れを待っていたかのように任されていた伊万里市の炭坑を手放しました。60歳目前で転職した父と共に佐世保市に移り住み、苦労の連続の中で私達兄弟を育てた挙句、その夫を75歳で亡くしたのは母が64歳の時。以後、独居の寂しさの中で暮らす母を母の兄弟達が慰めに来てくれたりした時期もありましたが、その姉や兄達も次々と他界します。
☆2004年3月。母との同居が1年を迎える
団地内にある【Yの家】へのデイ通いを止めた母は毎日の退屈さから再び我が儘になっていきます。家でゴロゴロと・・行動範囲が狭くなった母は再び歩行能力が低下し、入浴時にも介助が必要な日が増えてきます。
このままでは元の暮らしに戻ってしまうと思った私は再び自宅から車で5~6分の場所にある立田山自然公園での歩行訓練を開始します。私が職場に復帰したのは僅かの期間。再び、母と過ごす時間が必要になったのです。
「膝が腰が痛いのは生きている証拠。筋肉を鍛えれば多少の関節の痛みは消えるさ。独り暮らしがしたいなら頑張れよ」、と励ませば、母は「うん、来年の正月には佐世保であんたや孫には小遣いもやらにゃ・。えーと、私の家は佐世保だったよね」。起伏ある立田山自然公園の芝生地で母は必死に頑張りました。
この時期、私も職場のスタッフに再びの迷惑を掛ける上に収入も減り、私達夫婦にとっても辛い時期ではありましたが、母自身は心から充実していた時期だったと思います。
やがて、母は立田山自然公園遊歩道を杖をつきながらも以前のように40m以上を歩くようになり、「尚宏・車椅子は今日はもういいよ」、と日によっては休みをいれながら約800mを歩く事さえありました。2004年3月、母との同居が1年を迎える頃です。
☆同3月。脳の軟化って・・。/3作目:♪【立田山自然公園にて】を書く
自然認知は老化による脳の軟化が引き起すものです。軟化が進んだ脳の部位が運動機能と関係する場合には立つ、座る、歩くなどのリハビリにも限度があるといいます。言語を支配する部位の軟化が進むと言葉の呂律が回らない、言葉自体の意味や日本語自体を忘れる事もあるとか・・。だから、私は生活苦なんかどうでも良かったのです。目の前の母の老いを何とか食い止めたいとの一心でした。
そして、母の回復力は凄いモノでした。気丈夫な面は勿論、私との相性がいいのでしょうか?。時折、私が使う激しい叱咤激励の言葉に対しても素直に聞いてくれるのです。「頑張るのは俺じゃない、あんたさ」、「うん」。
「それで一番楽になるのもあんたさ」、「うん」。
私はこの立田山自然公園という場所で母と心の友達になれた気がしています。母との同居暮らしを始めて1年目を迎えたのです。
「尚宏、そろそろ帰ろうか?、今度来る時はおむすびでも作ってやろうかね」、「そうね、たくあんも頼むよ」。
この立田山自然公園は「母に母を自覚させる場所」でもあるようでしたが、私自身が子供に戻る場所かも知れません。こうして、2004年3月に3作目となる【立田山自然公園にて】ができたのです。
☆2004年5月~12月の頃/「イサムおじちゃん・・」。
時折、母は私の事を、「イサムさん」、とか、「イサムおじちゃん」、と呼ぶ日があります。しかし、私は母が自分の記憶の矛盾に気づくまで放っておきます。話を中断させて修正するより、最後まで話を続けさせる事で自分で間違いに気づく事が多いからです。
イサムさんとは[河内勇]という母11歳違いの亡き実兄です。私の母は幼い頃の勇兄さんの優しさをいつも口にしています。そして、母は私がこのイサム叔父に風貌や性格が似ているものだからよく勘違いをするのです。
母が嫁の言葉に協力しようとしない時など、「そんなだとイサムさんから叱られますよ」、と嫁が言えば、「はい、分かりました。叱られたら大変だ」、と急に素直になります。幼い頃の母が11歳年上のイサム兄さんをいかに慕っていたかがよく分かるのです。
☆「短命を知るや知らずや蝉しぐれ」。4作目:♪【蝉しぐれ】を書く
話を戻して2003年初夏の夜。私は嫁が入浴介助をしてくれて寝床に就いたばかりの母を団扇で扇いでいました。母は部屋のクーラーを勿体ないからと嫌がるのです。その団扇には「短命を知るや知らずや蝉しぐれ、ツヤ87歳」、という句が書いてありました。独居をしていた時期の母が87歳の時に佐世保の自宅で詠んだものでした。
突然、母が、「蝉しぐれという題名の曲を作っておくれよ」、と言うのです。歩行には自信をつけたのでしょうが年寄りって入浴で体力を消耗します。母は風呂から上がる度、「気持ちいいけど風呂って疲れる」、ってよく言います。また、この頃の母は体力に自信を持つ一方で自分の余命を冷静な口調で語る日もありました。死ぬ時は独りで、そして畳の上でと母が独居に非常に拘っていた理由が分かった気がしました。
「蝉しぐれというお題で曲作りか・・そうね、作ってみようか」。
この頃の私は【母に生命を返す時】などというCDを作る事になるなど全く思ってもなく、単に季節毎の母の日常を日記代りに詩にでもして残せれば・・という程度の思いだけでした。
早速、私は詩作りを開始し、曲作りの途中で母に唄って聞かせるのですが。「そりゃ・・、何の歌ね?、誰の事ね・・」。そんな事がありながら2004年5月、母との同居が13ヶ月目の頃に4作目となる【蝉しぐれ】ができたのです。
☆リハビリに集中、音楽どころではない。当分は作品作りをやめよう
母は2004年の2月26日にデイ通いをやめて以来、既に3ヶ月を経過していました。しかし、ひたすらに立田山自然公園での私との歩行訓練に励んでは劇的な機能回復を見せたのです。
杖をつき、左手は私の腰のベルトを握りさえすれば1.2Km程度を歩いた事もあります。また、途中の山道に置き忘れてきたタオルを取りに戻っては1.8Km以上を歩いた事さえありました。この立田山自然公園は母が大好きな場所になっていきます。
「これはいい・・まだまだ、頑張れる」。この後の私は一切の詩作も曲作りも止め、母の更なるリハビリに集中する事にしました。
認知が進むのは仕方がない・・。幼い頃の記憶に従って思考して言葉を発したり行動をとろうとするのが認知症の特徴であれば、その認知の症状を逆利用してリハビリしてみようと思ったのです。
母の記憶の多くを支配しているのは場所で言えば深江や歌が浦での暮らし。人物であれば幼い頃の母の手を握っては優しく諭してくれた次男のイサム兄さんです。
意識の「すりこみ」、というのでしょうか。鍼に灸、マッサージに散歩と週の多く、一日の時間の多くを私と過ごす事が多くなった母は事ある毎に私の事を「イサムさん」、「おじちゃん」、と呼んでは私とイサムさんを勘違いするケースが増えていました。私は母がそう思う事で心が安らぐのならそれで構わないじゃないか、と思うようにしました。
「それは違う、あんたの間違いで俺はあんたの息子の尚宏だよ」、と幾ら修正しても何の意味もないのです。分からなかった事を次々と覚えていく子供の成長現象ではありませんからね。認知とは日常から現在が欠落していく過程を言うんです。
☆母が台所で包丁を握った日
母は春の水前寺公園の桜、大津の清正公公道のツツジにも母は感嘆の声を上げていました。嫁は熊本城の桜や夏には米どころの菊池を案内し、名産の米を買って帰ったようです。合志町では私は公園に実った山桃の実をこっそりと取って食べた事もあります。「ほー、山桃が珍しいね。誰も見ちゃおらんよ。ホホ、採らんね」、と母が言うからです。
やがて、母は再び僅かな介助だけで入浴が出来るようになります。また、私がパソコンなどに集中してしまって母の観察がおろそかになった時など、はっと気づけば母が台所でフラフラと何かをしていそうな姿を見てドキッとする事が目立つようになります。母はガス器具の操作が分からないだけで、実際には茄子の皮を綺麗に剥いて切り揃えていた事もありました。「尚宏・、魚の煮付けにはおナスが合うよ」、って。この頃の母には包丁を使わせても安心できる日があったのです。
☆2004年10月の頃。8ヶ月振りのデイ通い再開:今度は毎日、2つのデイ施設へ。
日常に自信をつけた母は生甲斐を蘇らせたように2004年10月12日からは再び【Yの家】へ通うようになりました。2004年2月26日以来の約8ヶ月振りのデイへの復帰でした。しかも今回のデイ通いは毎日。
そして、11月5日からは別なデイ施設の【K苑】へと母は曜日別に2箇所のデイ施設へ出掛けるまでになったのです。このデイは9:00~16:00の時間帯でしたので私も通常モードに近い勤務へと復帰した時期です。
K施設での母はお得意のハモニカを披露して人気者になっていた模様ですが、ここでもテーブルの上に置いていたハモニカを誰かが勝手に吹いたからとゴミ箱に棄てて帰り、「もう、K施設には行かない・・」、と言出したり、「でも、あそこのご飯は美味しいからね・・」、と思い直したりして母なりに自分の身体の状態が良くなってきているのを実感していたのだと思います。それとも、「行くのは嫌だ」、と言い始めたらイサムおじちゃんに叱られるとでも思っていたのかも知れません。
ハモニカを吹く事で母の心肺能力が高まり、メロデイを思うだけで脳も活性化されるのでしょうね。顔色も皮膚の艶もよくなるようでした。
☆2005年2月。母が風呂で眠り、浴槽に浮いていた事件が・
2005年を迎え、92歳の誕生日直前の2月23日から母の言動が突然におかしくなるのです。朝の食事中に居眠りを始めたりお酒に酔ったかのように言葉の呂律が回らなくなり始め、2月24日には入浴中に眠ってしまって嫁が気づいた時には浴槽に浮いているという事件を起こしてしまったのです。
嫁は、「お義母さん、上がりましょうか?」、と尋ねたのですが、「まだ、いいよ」、と母は返事する一方で浴槽の中で眠り始めたようでした。嫁のせいではありません。母の事を一番理解して共にする時間も長い私が予知しなければいけない事件でした。全く私の不注意で起きた事でした。
母は夜中に国立病院に搬送されCTでの検査の結果、脳に多少の出血が見られるが以前からのものとも考えられる。様子をみたいという事で血圧も落着いた早朝には帰宅しました。
気になる事があった私は帰宅早々、母の服用している薬を調べました。数日前の近所のクリニックの定期診察で多少の血圧上昇が見られるという事で降圧剤の量が増やされていたのです。アダラートという降圧剤の一日服用量が15mgから30mgに増量されていて、これが食事中や風呂で眠ったり言葉の呂律が回らなくなったり、風呂場での判断力が鈍った原因だったとは断言しませんが、インターネットの医学書の文献などで調べた限りでは降圧剤の副作用としては、「脱力感や判断力の低下」、は十分にあり得る事でした。
☆母は護られ、生かされている
国立病院から自宅に帰ってからの母はひたすらに眠り続けました。風邪をひいている訳でもないのに顔と限らず、全身が赤くなるほどに高熱も続き血圧も脈拍も再び不安定になりました。私は両手に氷袋を持ち、眠り続ける母の全身を冷やしました。そして、母の頭を抱え込み、「神様、俺と母の命を交換してくれ・・頼むよ。頼むよ」、と、何度も呟いていました。嫁は、「あの時はソバで見ていて気持ちが悪かった」、と言いますが、母が眠り続けて1週間目に入った頃の夕方でした。
母はハッキリとした口調で、「尚宏・・、どこに居るのね?・・、お腹が空いたよ」、と自分の部屋で叫んでいたんです。この時、私は不思議に母の出身の濱野一族の力を感じました。何かの力が母に働いているような気がしたのです。私が幼い頃に何度となく感じた不思議な力でした。「母は誰かに護られ、生かされている・・」。私はそう思ったのです。
☆2005年6月の頃。デイ通いを2箇所から1ヶ所にする
やがて、母は以前のようにデイに通うようにまで回復したのですが2005年6月28日にはデイ通いを一旦は辞めます。2箇所のデイ施設よりも1箇所にしようという理由からでした。マイペースな人で強要されるのが嫌いな母には広いスペースを持つ施設の方が似合うような気がしました。
こうして、2005年7月1日から市内の【K苑】での月~土曜の16:00迄のデイに通うようになります。母の言動も落着き、私もようやく・と言うか、何度となく中断した職場復帰が果たせた時期でした。
☆2005年7月/1年2ヶ月振りに楽器を触る。5作目♪【母のクーデター】を書く
精神的にゆとりを取戻した私は再びギターやピアノを触る機会が増えてきます。[蝉しぐれ]を書いた2004年5月以来、実に1年2ヶ月振りに楽器を持つ気になったのです。
2005年の7月のある日、職場の壁にピンで留められたままになっている【母のクーデター】という詩に目が入りました。「2003年、夏・・母が突然、騒ぐ、こんな所に連れてきて、あんたはひどい息子さ・・」。
この詩は2003年の夏の出来事を書いた詩ですが、書いたのは2003年の晩秋の頃ではなかったかと思います。私は一気に曲を付けていました。
この【母のクーデター】という作品は5作目です。実に14ヶ月振りの曲作りでしたが、作曲には確か4分と要しなかったと覚えています。私はこの作品を切っ掛けにして再び曲作りへの意欲が湧くようになりました。
この【母のクーデター】とは、この時から2年前の2003年夏の次のような出来事でした。
立田山自然公園でのリハビリで歩行に自信をつけた母は、「これなら一人でも暮らせる」、と本気で思い始めていたのだと思います。ある日、「私は帰るよ」、と言い始めました。「これ以上は迷惑掛けたくないから」、と言います。
「無理だ」、と言えば、「皆で私をあちこち引回して、私は辛いよ。私はどこも何ともないのに・・、あんたはひどい息子さ」。そう言う母は私が躊躇している間によろける足を杖で支えて本当に家から姿を消したのです。母の手提げバッグには貯金通帳も入っていました。団地を幾ら探しても見つかりません。警察への捜索願いも出しました。
結局、夕方には私の家から50mほどの距離にある自動販売機の横に座り込んでいる母が見つかったのです。ひどい脱水状態になっていました。
本人曰く、「私しゃ、何しとったと?」。「タクシー見つけて郵便貯金を引き出して貰うつもりだった」、と怖い事を言っていました。
この出来事があった時点で母の認知が更に進み始めたと判断した私は